“駄目である事”が悪いのは、ある“特定の目的”において、それを速やかに成し遂げるに当たり、不都合が生ぢるからであり、その際、時として他人にも迷惑をかける可能性があるからである。
よって、その“特定の目的”とやらを目指さない場合は、別に駄目でもなんでも構わない。
しかるに、何故、そんなに“駄目である事”を知られる事を必要以上に怖れるのか?
奴隷の番長に馬鹿にされ、家畜の群に蔑まれる事が恐いのか?
それとも、本当のご主人様から見限られ、この社会における、自分の存在を否定される事が恐いのか。
・・・とは言え、確かに、一度、“駄目である事”のレッテルを貼られてしまうと、それを返上するのは難しく、自分のやりたい事に挑戦するチャンスが奪われたり、仲間外れにされたりもするだろう。
まあ、“駄目である事”よりは、“駄目でない事”の方が良いに決まってはいるが・・・。
問題は、その“特定の目的”とやらに、何でそこまで執着するのか?・・・と言う事である。
自分が本当にやりたい事が出来ないと言う事は悲しい。
しかし、それは本当に自分のやりたい事なのであろうか。
もちろん、商売であれば、誰かに買ってもらわない事には、始まらない。
ただし、本来、好きで始めた事ではなく、元々、自分のやりたかった事が商売なのであればの話だが・・・。
好きな事をやるための努力や苦労は楽しい。
それが報われるなら、人生は、なお楽しい。
要するに、好きでもない事で、駄目人間呼ばわりされたって別に困りゃあしないっテコト。
欲しいモノが、他の誰かと競合してしまう(奪い合わなければならない)場合は別だが・・・。
好きな事だけ・・・とは言わない。だけど、もっと、好きな事をたくさんしたい。
好きな事より、好きぢゃない事をする方が多いなんて、どう考えても、まともな生き方とは思えない。
あるいは、それだけ、この国が貧しいのであろうか・・・。
本当に駄目な人間とは、好きでもない事に忠誠心を捧げ、自分の大事な命をすり減らす事さえ厭わない、その様な人間ではないのか?・・・と、私は考える次第である。
親の言う事や、先生の言う事を、いつまで信ぢてるんだ・・・。