Mr.エレクトの独り言 ともだちのやるおんがく
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Mr.エレクトの独り言

自主レーベル及び、日本人中古貴重盤ショップ、『エレクトレコード』オーナー、Mr.エレクトによる独舌日記!!

ともだちのやるおんがく

「おんがくはぼくのともだち」の続編的なもの・・・。

逆に、「ともだちのやるおんがく」を好きになる可能性が高いのは何故か?

ここの所、私はそればかり考えていた・・・。

そして、今やっと、ある種の結論を導き出した。

要するに・・・。

そもそもが、他の誰かと、ともだちになる事自体が、生きてきた環境や影響を受けた音楽が似通った同世代であったり、あるいは年齢が離れていたとしても、物事に対する考え方や価値観が近い・・・等、何らかの接点がある訳で、それゆえに、そのともだちが演る音楽にも、何かしら惹かれる要素が無きにしもあらずなのは、至極当然の事なのである。

よって、どれほど長い付き合いのともだちであっても、自身の趣味や嗜好が全く反映されていない音楽を演っているとすれば、それを好きにならない可能性も大いにある訳なのだ。

また、以前にも述べたが、音楽を好きになる理由として、その出会いのシチュエイションなりタイミングが、非常に重要なポイントかつウェイトを占めていると言う点が挙げられる。

例えば、同ぢ悩みや怒りを共有する、同世代のともだちが聴いている音楽を好きになる可能性は非常に高い。

しかし、その逆に、「この音楽が良いから聴け」と、無理矢理に押し付けられたならば、その音楽の良し悪しや本質とは全く無縁に、聴かず嫌いになってしまう事も充分考えられるのだ。

ゆえに、そう言った不確定要素を完全に排除して、純粋に音楽の良し悪し・・・と言うか好き嫌いを決定出来る、あるいは、そうしたいと努めている人間が居るとするならば、その人にとって、「おんがくはともだち」では無い・・・と言う言い方も出来る。

・・・とは言え、本当に世界中の音楽を聴き漁って、それを決めるならばまだしも、実際には、それにも限界がある訳で、厳密に言えば、限られた中から選んでいるに過ぎない訳であるからして、サンプルの量、及び自発的と受動的の違いはあれど、結局は、“出会い”がそれらを大きく左右している事は否めない。

何せ、出合わなければ、知りようがないのであるからして、遠い国、違う時代に、本当に自分好みの音楽が存在していたとしても、記録としての音源すら残っていない事には、好きにも嫌いにもなりようがないのである。

ましてや、自分自身の持つ基準自体が、外部からの影響を少なからず受けていると言う事は、絶対に否定し得ない事実なのだ。

ゆえに、審査基準なり審美眼が厳しいがために、こころの底から本当に好きになれる音楽が無い人間は、ぐだぐだ不満を述べるよりは、自分の手で音楽を創ったり演ったりする方が手っ取り早いであろう。

ただし、それはある種、“もう一人の自分”を探す行為でもあり、そんな人が、音楽への接し方を、ともだち(・・・すなわち、自分との共通点を多く含む、しかし自分とは完全に一致しない差異を持った人間)を選ぶ事と同様に考える事は非常に難しく、それすなわち、ともだちに対しての要求水準も、厳しく、高く、狭いのであろう事は、想像に難くない。

・・・と、話が少々それたが、そう言う人はリスナーには向いていない。むしろ、演奏者側に回るべきである。

何にせよ、結論として、「おんがくはぼくのともだち」であれば、「ともだちのやるおんがく」を好きになる可能性も高いと言う事は、紛れも無い事実であると言えよう。

要するに、そもそも、「何を求めて音楽を聴くのか?」、更には、「音楽(ともだち)に何を求めるのか?」・・・と言う、根本的な姿勢や生き方自体が、人それぞれ違うのだから、それを比べた所で意味がないのだ。

それとも、それさえも比較しなければいけないのだろうか?

・・・必要なのは、“比較”では無い。音楽への接し方、そして、自分の生き方に対する認識・・・すなわち“自覚”なのだ。