さて、前回は、「“想像力の無さ”が、いぢめ、更には、いぢめの連鎖を引き起こす原因である」・・・との仮説を述べたが、今回は、その理由について・・・。
そもそも、世間一般には、「想像力を養おう」などと言う理想論が謳われてはいるが、元から無いものが育つはずなどない。
・・・と言うか、想像力とは、必要に応ぢて芽生えるものであるが、しかしまた、時間に余裕が無ければ芽生えないものでもあると言う、ある種、生育環境を整える事が非常に難しい動植物みたいなものなのである。
例えば、玩具なりゲームを買うお金が無ければ、金のかからぬ遊びを考えるなり、自分で玩具を作るなりと、何かしら工夫したりするものであるが、現代は、余程の貧困家庭でない限り、そこそこ玩具は買ってもらえるし、流行のゲームを持ってないと、それこそ置いてきぼりをくい、仲間外れにされて、いぢめの対象となってしまうため、自分で何かを生み出す必要など皆無だし、ましてや、そんな余裕などないのだ。
しかし、その逆に、いぢめられたり仲間外れにされてしまった者ほど、独りぼっちの孤独な時間を埋めるために、想像力や創造力が芽生え、養われる可能性が増すのだから、何とも皮肉なものである。
また、経済的に優位な立場や既得権益を牛耳る支配者層・・・すなわち飼い主が家畜に求めるのは、“想像力”などではなく、単に“労働力”でしかないのだから、まだ社会に出る前の子供の時分から、“いぢめの構造”を利用し、“孤独に対する恐怖”を煽って、子供達を争い競わせるって事は、生産性を上げるための“競争力”を養うには、非常に理に適った、上手いやり方なのである。
それに、想像力が豊かにでもなったら、子供や、その親達に、玩具やゲームを次から次へと買わせる事も出来なくなるからね。
要するに、子供達は、いぢめにも遭わず、受験勉強等の競争に打ち勝ち、一人前の社会人とやらになるために、日夜、戦々恐々としているのだ。
よって、むしろ想像力があったなら、この先の自分の人生を憂いて、無気力になるか、自殺でもしてしまう事だろう・・・。
ゆえに、その恐怖に耐え切れなくなった臆病者は、自分より弱い人間を見つけ・・・あるいは作り出して、そいつをいぢめる事によって不安を解消し、自分の立場を何とか守ろうとするのである。
本当は、競争に打ち勝つ事だけが幸せを獲得する方法でもなければ、幸福の形態は、いくらでもあると言うのに・・・。
ましてや、そうやって我慢し努力をし続けて、立派な大人とやらになった所で、その構造自体が変らない限り、失敗や油断から、競争に負けたりレールから脱落すれば、直接的に“いぢめ”られないまでも、間接的には“みぢめ”な思いを味合わされ続けるのである。
否!!年老いてから、そんな自分の運命を呪ってみても、後の祭りだ。
せいぜい、自分の子供、すなわち子孫に夢を託すのが関の山・・・。
だが、悲しいかな、家畜の子は家畜である。
どこかで誰かが、この不毛な連鎖、何者かによって仕組まれた“いぢめの構造”を断固として拒絶しない限り、いつまで経っても悲劇は終らないだろう。
(つづく)
次回は、金銭に代わる価値について・・・。