正義とは、言わずもがな、人類が自らを“生かす”事を目的としてために掲げた指針であり、間違っても滅びゆくためにあるのではない。
問題は、その正当性が、どれくらいの範囲において通用し得るか?・・・と言う点だ。
自分を生かすための正義なのか?
自分の家族を生かすための正義なのか?
ある人種のみを生かすための正義なのか?
人類すべてを生かすための正義なのか?
地球上の生命すべてを生かすための正義なのか?
・・・そうやって視野を広げて考えて行けば、その“正義”が、何のための、そして誰を守るためのものであるのか?と言う事がハッキリと見えてくる。
そもそも正義とは、人それぞれ自分が定めた許容量の範囲内でしか通用し得ないが、しかし、その限定された枠の内でのみ顧みれば、明らかに正しい方向性を指し示す価値基準なのだ。
よって、他者の正義と共通する部分もあれば、どこかしら交わらぬ部分もあってしかるべきであり、更には一片足りとも相容れない場合も充分あり得るのである。
それゆえ、その許容量の範囲を広げれば広げるほど、多くの人との連帯が可能となり、その逆に、それを狭めれば狭めるほど、孤立していくのは当然の結果なのだ。
しかるに、弱者が弱い自分を守るために振りかざす自分のみに都合の良い正義によって、弱者同士の争いが絶えないと言うのが、この世の常。
その結果、利益を独り占めにしようとする強者のみに都合の良い正義によって、弱者が喰い物にされ滅ぼされる(or飼い殺しにされる)のは自明の理であり、弱者が連帯して強者にのみ都合の良い正義に立ち向かう日など、未来永劫、絶対に訪れるはずがないのである。
強者の正義も弱者の正義も、しょせんその程度のレベルなのだ。
自分しか救えない正義。
自分しか救わない正義。
自分さえも救えない正義。
誰をも救えない正義。
正義とは、“利己心”を正当化するための大義名分に過ぎないのか・・・。