Mr.エレクトの独り言 「“正義”の定義」②

Mr.エレクトの独り言

自主レーベル及び、日本人中古貴重盤ショップ、『エレクトレコード』オーナー、Mr.エレクトによる独舌日記!!

「“正義”の定義」②

前回、「正義とは、“利己心”を正当化するための大義名分に過ぎないのか・・・。」と述べたが、“利己心を正当化する”・・・などと言うと、それがあたかも“悪い事”であるかの様な印象を受けたかも知れない。

しかし、それはあくまでも受け取る人間の価値基準次第・・・である。

また、“善い事”、そして“悪い事”と言うものは、その対象物や場面によって、大きく異なるものなのだ。

さて本題。こんなシチュエイションは、そうそうないのだが、あなたともう一人の誰かの、どちらかが死ねばどちらかが助かるとするならば、どちらが助かる事の方が正義なのであろうか?

もちろん、双方にとってみれば、自分自身が助かる事こそ正義であろう。正義の範囲を自分と言う枠内に狭めてみれば、自ずとそうなってしかるべきである。しかし、人類規模の範囲での正義で見たらどうか?

答えは簡単。人類の将来を考えれば、“生命力の強い者”が、生き残るべきである、

では次の問題。目の前で自分の娘と他人の娘が死にそうで、どちらか一人しか助けられない場合、あなたはどちらを助けようとするだろうか?

とりあえず自分規模の正義で考えるならば、まともな親であれば、たまたま自分の娘が憎くて仕方なかったって場合を除き、当然、他人の娘に死んでもらう事を選ぶだろう。

しかし、やはり人類規模の正義で考えてみれば、容姿や知能の貧しい自分の娘(←たとえばの話デスから!!)よりも、明らかに容姿や知能で勝っている他人の娘を生かした方が絶対に人類の未来のためになるはずなのである。

それでは、こんなケースではどうか?

親である自分と、自分の娘の、どちらか一人しか生き残れないと言う場合。

これは難しい・・・。

普通に考えれば、親は自分と引き換えにしてでも子供の命を救おうとするもの。しかし、妻は良いとしても、家に帰れば三人兄弟のうちのもう二人が待っているとしたなら・・・。

自分が死んで目の前の娘を救った所で、一家の大黒柱を失った妻と三人の子供の、その後の生活はどうなるのか?それだったら、娘一人を犠牲にしてでも、残された妻と二人の子供のために自分が生きるべきではないのか?

要するに、こう言う事だ。ある一方の正義は、もう一方の正義を殺す。

そして、正義の規模が利己的なものに近づけば近づくほど、大きな範囲での正義からは遠ざかる。

・・・正義なんてしょせん、勝った者が定義づけるだけのものに過ぎない。

だが、それで良い。

人類規模で見れば、人類と言う種族を存続させる事の出来る、“生命力の強い者”こそ正義であるべきなのだ。

・・・とは言え、それすら地球規模にまで範囲を拡げて考えれば、他の動植物を生かすためには人類なんか滅んでしまった方が良いのかも知れないが。

(ところで、現在の世の中に蔓延る弱肉強食とは、真の意味での弱肉強食では無い・・・が、その件は、またいずれ・・・。)

よって、たとえば私の様な“生命力の弱い者”が掲げる正義とは、弱者(敗者)が強者(勝者)に抵抗するための大義名分でしかなく、“生命力の強い者”を尊重する人類規模の正義とは真っ向から対立するものとなって然るべきなのだ。

ゆえに正義とは、あくまでも、各々が定めた規模に合わせ、その範囲内(人類だったり自分だったり家族だったり・・・)の者の生命を存続させる事、すなわち生命を“生かす”事を目的とした価値基準に過ぎず、そう言う意味においては、ある種、「“生”義」とでも表記し直すべきものなのである。

(つづく)