「年相応」とは、良く使われる言葉であるが・・・。
それは、その年齢になれば、一般的に見て、かくあるべしと言う、特定の時代や地域に由来する常識なり平均値に見合っているかどうか?・・・と言う点で判断される事柄ゆえ・・・。
要するに、限定された範囲内において大多数に属するものが、少数派を迫害する際に用いるには、非常に都合の良い慣用句であるとも言えよう。
「身分相応(資産相応)」とか、「分相応(能力相応)」と言うのであれば、弱肉強食の理屈に適っている訳であるからして、否が応でも受け入れざるを得ないが・・・。
しかし、そこはそれ、きちんと用意されているのだ。
管理された柵の中に居さえすれば得られる、安全安心安泰と言う名の愉悦、そして根も葉もない優越感と言う名の自信ってやつが・・・。
「年相応」に限らず、大多数の平均値を信仰してやまない人間にとってみれば、基準から外れる事や群から離れる事は恐怖でしかない。
だが、しょせんすべては芝居の小道具ならぬ、支配の小道具に過ぎない。
自主独立した人間には、そんなもの通用しない。
「年相応」より大事なものは、「人(ひと)相応」(あるいは「自分相応」)・・・である。
だから、一日でも早く、その境地に達したい。
奪う事も、ひれ伏す事もないままに・・・。