人間には、“他人を妬む事”・・・すなわち“嫉妬心”と言う感情がある。
かく言う私も、時に嫉妬心に苛まれる・・・。
人は何故、嫉妬するのか?
自分が持ち得ないものを他人が持っているから?
自分が持っている以上に他人が持っているから?
また、それらは双方の価値観が異なれば何ら問題ないのであろうが、時にはその逆に、“持ち得る者”が“持ち得ない者”を嫉妬したりもするから大変だ。
「悩みのないあいつが妬ましい」・・・ならまだしも、しまいには、「あいつは貧乏なくせに幸せそうにしているから許せない」・・・などと。
他者との比較によって誉められたりけなされたりして来たがゆえに、「人は人、自分は自分」と言う考え方が出来ないから?
あるいは、自分の能力に見合わぬ欲求や欲望を抱く事自体が悪いのか?
否。人として成長するにおいて、競争心や高い目標も、ある程度は必要であろう。しかし、それらがあまりにも肥大すると、嫉妬以前に、もっと困った問題が発生する様な気がしなくもない。
・・・となると、やはり、本当に妬むべき・・・と言うか憎むべきは、他人が所有する物質の量や精神的充足度とは全く無関係でいられる程の、ちょっとやそっとでは揺がぬ自己の価値観を確立出来ていない事、及び自己の能力のみで自分を満足させる事が出来ない事、それらすなわち、“自分の無能力さ”・・・なのではないだろうか?
・・・とは言え、この世は現実に、限られた物質なり空間なりを奪い合わなければならない仕組みになっているのであるからして、それは致し方の無い事であるとも言えよう。
ましてや、一つしかないポスト(地位)であるとか、一人しかいない異性を奪い合うとなれば、それを手に入れられるのは一人だけゆえ、どう考えてみても他者との競争は避けられない宿命なのである。
そして更に言えば、嫉妬とは執着心から芽生えるものであり、何事にも執着心が無い、あるいは少ないと言う事は、生存欲求の薄さにも繋がる訳であるからして、生き物としては、あまり誉められたものではないのかも知れない。
しかしながら、己の分を知る事、あるいは他人に左右されず自分自身で充足感を生み出す事が出来ると言う点においては、その潔さに対して敬意を示さねばなるまい。
何にせよ、度を越した嫉妬と言うのは醜いものである。
ゆえに、少なくとも、現在自分が抱いている感情が“嫉妬”であるのか、そうでないのか?と言う事ぐらいは、認識しておくべきであろう。
“嫉妬する事”よりも恥ずかしいのは、“自己の感情に振り回されて、自分自身が見えなくなっている状態”・・・である。
よって、“嫉妬心”とは、ひとつ取り扱い方を間違うと、他人を破壊する凶器となり、自分を破滅に追い込む狂気ともなり得るのだ。
しかるに、もしも貴方が、“自己の嫉妬心”をコントロールし、それらと上手く付き合う事が出来たなら、それはもの凄いエネルギー源となるであろう。
ただし、そのためには、他人がどうだこうだと言う前に、自分の本心と誠実かつ謙虚に向き合う事が必要不可欠となる。
・・・と言うか、本来は、そうする事こそが最も大切だったはずなのだ。
“他人を妬む事”・・・よりも。