★「ジュン上久保(上久保純)③」(2005年1月15日の日記より再掲載)
・・・ではB面。
⑤(B-①)「半分終った俺の人生は」
前回述べた様に、本来ならば、レコードを裏返す間の無音の後に、軽やかに始まるはずなのだが、今回のCD化では唐突に始まってしまう。カントリー調の、本アルバムのコーヒー・ブレイク的な作品だが、その詩の内容は、タイトル通り、これまでの人生や残りわずかな人生に対する、自嘲的な独白である。
⑥「人生は舞台劇」
この曲と次の⑦が、本アルバムの真骨頂であろうか。死を目前にした男が、人生を振り返り、悟りの境地、諦(あきら)めにも似た、その人生観を、ひとり静かに語り始める・・・。クライマックス部分では、「やり直しはきかない」と、運命の残酷さを呪いつつも、しかし、「なんとかなるものさ」と、やはり諦念の観を露(あらわ)にする。そして、教会のパイプ・オルガンの様な音色のキーボードが、その陰鬱な気分に拍車をかけるのだ。
⑦「何となく何となく」
⑥のエンディングから、なだれ込む様に突入するこの曲。⑤の自嘲、⑥の諦観が、ある種のダンディズム(気取り)である事を証明する、こころの内を隠し立てせずさらけ出すかの様な作品。④での「愛が欲しい」と繰り返すリフレインと言い、「俺だって 俺だって いい目をみたい」と、てらいなく訴えるこの曲と言い、普段は斜に構えたニヒルな男が、死ぬ間際に一瞬、己が本心に素直に向き合う姿は、その激しいサウンドと共に、こころの奥底にダイレクトに届く。そして、多重録音、たったひとりの演奏である事による限りない一体感、孤立感溢れるグルーヴが極めて心地良い。マゾヒスティックな陶酔感さえ感ぢる作品で、私はとても好きだ。
⑧「殺ったのは俺じゃない」
アルバム自体のストーリーは⑦で一端終り、アンコール的な作品であろうか。本作のみ、作詩はキッコ・ヒズメと言う、謎の人物の手によるものである。恋人殺しの容疑者にされてしまう男の、不運と言うか、白昼の悪夢的な、絶望感、行き詰まり、焦燥・・・。理不尽なこの世、抗いきれぬ運命に対する、最後のあがきとでも言うべき作風は、本アルバムのラストを締めくくるに相応しい。
また、本文では言いそびれたが、上久保は、その慈愛に満ちたうた声もさることながら、まるで、むせび泣いているかの様な、表現力溢れるギター・プレイも素晴らしく、昂ぶる感情を更に盛り上げるベース・プレイも特筆すべきものがあると言う事を付け加えておく。
<総評>
あくまでもフィクションでありながらも、そのリアリティ溢れる詩、曲、演奏、声、それらが一体となり、全編通して聴く事により、リスナーは、あるペシミスティックな男の一生を、こころの底に押し隠した本当の声を聴く事となる。ゆえに、本作に付き合える人間は、おのずと限られてくるだろう事は否めない。
そもそも、本作の真の価値は、1972年当時の音色と言う事を除けば、「あの時代に、このブルース・ロック・サウンドをたった一人で・・・」「当時、あまりにも売れていないため現存数が少ない・・・」と言った、歴史的意義や、コレクタブルな見解では無い。否、もちろん、そう言った意味での要素も、充分過ぎる程、満たしている。だが、それらは、私の様な廃盤商人や、一部のコレクターのみに通用する価値観であり、普遍的なものでは無い。
本作の本当の良さとは、「私が今も聴き続けている」と言う事実や、ある種類の人間のこころに、極めてストレートに届く、非常に良く効く、と言う効能ゆえにである。つまり、生きているのだ。作品として死んでない。充分過ぎる程、今に通用する。
ただし、先にも述べた様に、あくまでも、ある一部の人種にのみ有効なだけである。まあ、せっかくCDで復刻され、誰にも手軽に聴きやすくなったので、私と趣味が合いそうな人は、是非、購入をオススメする。
そのサウンドは時代の産物であるが、このやるせない感情、そして、“人のこころは死ぬ”のだと言う現実は、いつの世も、そうそう変わるものでは無いゆえ・・・。
最後に・・・。販売元サン、宣伝費ちょうだい!!(^^)/
(つづく)