「“正義”の定義」①
「“正義”の定義」②←(「正義の“見方”」は宮崎のオッサンの著書とタイトルが被ってた事が判明したため改題。)
半年以上も前に、途中まで書いて力尽きたため、(つづく)のままで放置しておりマシタが、あれではおそらく真意をすべて伝えきれなかったであろうと思うので、ようやっとその続きをば・・・。
そもそも、「正義の定義」を人間が決めた時点で、それは人類にとってのみ都合の良い理屈に過ぎなくなってしまう。
ゆえに、いつの世も「正義」を振りかざすのは、その正義とやらの定義が自己の利益と一致する者だけなのだ。
しかし、それで良い。 「正義」とは、人類が滅びるためや自分が死ぬためにあるのではなく、「生かす(活かす)」ためにこそあるのだから。
だた、それを適用する範囲が人それぞれ異なっていると言う点が、正義の定義を考えるに当たっての、最も重要なポイントなのである。
よって、それが如何に少数派の掲げる正義であろうと、更には、たった一人の人間がこころに抱く正義であろうとも、当の本人にしてみれば、それは切実にして誠実なる自己の価値観の表明なのであるからして、誰もそれを否定する事は出来ないし、ましてや踏み躙る事など絶対にすべきではないのだ。
・・・とは言え、もちろんの事であるが、その“正義”が他人の尊厳や生命までをも脅かす様なものであれば話は別である。
だから、貴方の正義が他人や親や世の中の正義とは相容れないものであるからと言って、それは恥ずべき事でも何でもない。
むしろ、“他人の自由を奪う自由”が本当の自由ではないように、他人の正義を数の正義で無理矢理抑圧する事や、権力で脅したり暴力を行使して力ずくで封殺する事の方こそが、真に批判されるべき対象であるはずなのだ。
しかしながら、他人の正義を尊重出来ない人間は、とかく他人の正義と自分の正義とを比較したり争ったりして、どちらが本当に正しいのか、その決着をつけたがるものである。
・・・かと言って、その争いに勝った方が、真の正義と言う訳でもない。
否。逆に言えば、それこそが現在蔓延る正義とやらの正体であり、本当の姿でもあるのだが・・・。
何の事はない、それは力の強い者が力の弱い者に勝っただけの事であり、しょせん人間社会の正義なんぞ、常に勝者、あるいはその時代の為政者なりその地域の権力者が、自分達に都合が良い様に決めてきたと言うだけの話なのである。
以下、繰り返しになるが・・・。
しかし、それで良い。 「正義」とは、人類が滅びるためや自分が死ぬためにあるのではなく、「生かす(活かす)」ためにこそあるのだから。
しかるに、ある意味、強い者が生き残る事こそ人間の・・・ひいては、生物界における正義であるとも言い切れるのだ。
・・・もちろん、だからと言って少数派であり弱者である私達も、みすみす排除されたり、そう簡単に転向する訳にはいかないと言う事も事実。
よって、もしも真の正義なぞと言うものがあるとするならば、それは自分にとって都合の良い事ばかりでもない代わり、誰にとっても都合の良いものでなければ絶対におかしいのだ。
ゆえに、自己の利益のみを追求する所に、間違っても正義など存在しようはずがないのである。
(つづく)