Mr.エレクトの独り言 「発する事と伝える事」①「歩み寄り」

Mr.エレクトの独り言

自主レーベル及び、日本人中古貴重盤ショップ、『エレクトレコード』オーナー、Mr.エレクトによる独舌日記!!

「発する事と伝える事」①「歩み寄り」

“発する事”と“伝える事”。

どちらの行為も、表面的に見れば大して変わりはない。

しかし、“発する事”は誰でも、そして独りでも出来るが、“伝える事”は、自分以外の相手が居なければ絶対に成り立たない。

また、より多くの情報なりメッセージなりを、より正確に伝えようとするのであれば、まずは自らがそれを正確に把握し、外部に向けて改めて再現する能力が必要となってくる。

・・・とは言え、もちろん、自分にとっても意味不明な感情を伝えたい場合もあろう。

しかしながら、それにせよ、自分の目や耳に感ぢた形状なり、こころの内に広がるその情景なりを、言葉や声、身体の動き等で表現・・・すなわち外に向けて再構築する際、その原型が薄れたり崩れたりせぬ様にするには、やはりそれなりの技術が必要不可欠なのだ。

そして、ただ“発する”だけではなく、それを自分以外の誰かに“伝えようとする”のであれば、自己の表現能力なり技術を磨き高める事ももちろんであるが、その対象となる相手を“知る”事こそが、実は最も早道であり、最重要課題なのである。

何故なら、考えても見よ・・・。

アメリカ人に日本語で話しかけても通ぢないし、その人が過去に味わった事のない程の悲しい感情を伝えるのは非常に難しい事なのだ。

しかるに、相手が何処の国の人種であるかが解れば、その時点で可能な限り対処も出来ようし、感情を伝える行為にせよ、普通の人が一般に経験しているであろう最大公約数(←失恋とか・・・)の出来事を扱えば、ある程度の近似値を求める事も可能となる。

また、あちら側からの歩み寄りが全く無い訳でもない。言葉が通ぢなくても表情や雰囲気で内容を察してくれる場合もあれば、自分の少ない体験の中からでも出来るだけ近い出来事、及びそこで芽生えた感情を照らし合わせようと奮闘してもくれるだろう。

・・・それがいわゆる、想像力ってやつである。

そしてそれは発信者側の技量の足りなさを補う意味合いも含んではいるが、更に言えば受信者側のマナーでもあり、発信者のメッセージを、より深く、より正確に知ろうとするのであれば当然の行為であるとも言えるのだ。

だが、その受信帯域と言うものは、その人間が過去にして来た体験の幅、感情の種類と重さによってまちまちであるがゆえ、あまりに突飛な出来事や現実離れした感情には、想像力が及ばない場合も多々ある。

だからこそ、ありふれた内容の物語や多くの人が共感し得る感情の種類や度合いの表現、もっと言えば、そこから“少しだけ”はみ出したものや、ちょっとばかし想像力を刺激するようなものこそが最も受け入れられ易く、あまりに特殊な内容であったり少数の者にしか理解し得ない種類の表現は、一部の人間にしか受け入れられなくても当然なのだ。

何故なら、それぞれに個人差はあろうが、人は誰しも自分を基準にして、その前後、上下、左右、ある一定の範囲内にしか想像力は働かないものだし、逆に言えば、余程の体験や感情を味わってきた者にとってみれば、ちょっとやそっとの事では、そのこころを動かされたりしないのである。

ゆえに、結論めいた事を言わせてもらうならば、他人に何かを伝えるためには、その相手がどんな人間であるかを知る事が必要であり、双方の歩み寄りと言うものもあるにはあるが、その歩幅(想像力の範囲)にも限界があると言う事・・・。

よって、“発する事”だけではなく、“伝える事”を最大の目的とするのであれば、“伝わる相手”を探した方が手っ取り早いとも言えよう。

何にせよ、自分の事を知って欲しいと思うのであれば、まずは相手の事を知ろうとすべきであり、自分の事を好きになって欲しいと考えるのであれば、まずは相手の事を好きになるべきなのである。

・・・と言うか、知りたくもなければ好きでもない相手に、自分の事を伝えようとする事自体がそもそもの間違いなのだ。

私個人の趣味で言えば、そう言った“無理を承知で立ち向かう態度”ってのも、嫌いではないけどね・・・。

(つづく)