例えば、文章の書き方に絡めて言うと・・・。
私も、ネットや雑誌で「上手な文章術」なるものを見かけた時には、軽くチラ見したりもする訳で・・・。
そこにはたいてい、こう書いてある。
「まず結論を最初に述べて、後から詳しい説明をした方が読者に伝わりやすい」・・・と。
しかるに、それはあくまでも明確な結論を伝えたい場合に限られ、私の様に結論がどうであるかと言う事よりも、何故にその結論に至ったか、更にはどの様な思考回路や価値基準の下に物事を判断しているのか?と言う事を、結果が見えない状態で手探りで解き明かそうとしているその途中経過を見せ伝えたい人間にとっては、その手法を使ってしまう訳にはいかないのである。
そして、更に言うなら、先に結論から入ってしまうと、どうしても自分の嗜好や利益にとらわれてニュートラルかつフェアなジャッジが出来なくなってしまう様な気がしてならないのだ。(←通常は結論を出してから文章を書くのであろうから、あくまでも私に関しては・・・の話ではあるが。)
また、「文章は簡潔に書くべし。そうでないと書いてる本人も話がこんがらがって訳が解らなくなってしまう。」・・・と言うものがある。
確かに私の文章は回りくどく、私自身にせよ、それを解りやすく整理するために、いつもかなりの労力を費やし、時には後から読み直して何度も何度も細かな訂正をしているのが現実。
ゆえに、いつも、「ああ、もっと文章が上手ければな~。」と、痛感する次第なのだ。
ちなみに、文章が回りくどくなってしまう事の言い訳としては、そもそも友人知人に言わせると私の意見はそれが本音なのかジョークなのかを非常に見極め難い様で、もちろん自らあえてそうしている部分も多々あるがゆえ、どうしても「理解を求める事」よりも「誤解されない方」を強く求める事となり、その結果、自分の価値観や視点以外の一般的な観点や多種多様な立場に基づく意見にも照らし合わせて物事を判断しているのだと言う事も書き加えておかなければ気が済まないからなのである。・・・と、早速回りくどくなってしまっているのだが・・・。
しかし・・・である。
仮に、文章を書くノウハウやテクニックをもっと身に付けたとしよう。そして、更に解りやすく簡潔な文章を書けたとしよう・・・。
するとそこには、おそらく主旨が明快にして結論が明確な「綺麗な文章」が提示されている事だろう。
だが、私はこう考える。
あれ?ところで、「回りくどい俺」はどこに行ってしまったのだ?・・・・と。
自分が伝えたかったのは、「綺麗な文章」だったのか、それとも「回りくどい俺」だったのであろうか?
もちろん、どんな事でもそうであろうが、技術と言うものは、何度も繰り返し行っているうちに知らず知らず少しづつ上達してしまうものである。
そうなればきっと、もっと楽にスラスラと文章を書ける様になるんだろうな~とも思うし、伝えたい事がより適切に表現出来る様にもなるだろう。
ただ心配なのはその時、技術と言う名の財産によって余裕や驕りが芽生え、「誰かに何かをどうしても伝えたい」と言う衝動や欲求に欠けた、頭でっかちな・・・更に言えば手癖や惰性だけで血の通わぬ機械的な文章を書くようになってしまうかも知れないって事が、私は怖いのだ。
まあ、そうならない事を願いたいものであるが・・・。
そもそも、技術とは何のためにあるのか?自分が楽をするためか?それとも、もっと高い次元の表現を行うために必要なものなのか?
「技術がある事」や「余裕がある事」、それ自体を伝える事だけが本来の目的ではないと言うのであれば・・・。
これはあくまでも個人の嗜好に過ぎないが、それよりも私は、現時点で自分が持ち得る技術や力量以上のものを表現しようと日々格闘している人間の、その成長の過程を見る方が好きなだけなのである。
いくら技術や才能があっても、常に自分に出来る範囲内の事だけしかやらない人間には、あまり感動を覚えない。
片腕の人にはそれなりの、身長3メートルの人にはそれなりの、三歳児にはそれなりの、それぞれに見合った挑戦や冒険があるはずだ。
単純に、「技術がある人」や「余裕のある人」の上位入賞者を見る事だけが好きな方であれば、話は全く別であるが・・・。
貴方が「何をどれだけ持っているのか」よりも、「何をどのようにして生きているのか」って事の方が、私には重要なのである。
だって、そう思わなければ、「俺」が浮かばれねえ。
(つづく)