「極私的音楽論」(→タイトルまた変えマシタ。「偉そう」・・・と、外野が煩いので。)
今回は、音楽における技術に関しての話。
ここで気をつけておかなければならないのは、作家・・・すなわち感情なり思想等の題材を音符の配列具合に変換して表す者と、演奏者・・・すなわち既に音符の配列で示されたものを再現(=実演)する者とでは、その意味合いが全く違ってくると言う点である。
演奏者であれば、しかもプロのスタジオ・ミュージシャンならば、音符の配列具合が如何に複雑であろうとも、それを正確かつ完璧に再現せねばならないため、あらゆる要求にも応える事が出来る多種多様な基礎技術や応用力を身に付ける事は必要不可欠であるはずだ。
また、演奏の基準となる楽曲の構築度(=完成度)が低い場合、もしくは逆に言えば自由度が高い場合は、楽譜にない気分的(=抽象的)な指示に基づく編曲作業をもこなせなければ、ライヴ等の生演奏を除くレコーディング業務の殆どは打ち込みによる機械的な演奏に職を完全に奪われてしまうであろう。
さて、それでは単なる楽曲や楽譜の再演者ではなく、元となる題材はそれぞれ違えど、それを音符の配列具合に変換する事・・・すなわち楽曲を生み出す事によって表現しようとする作家的立場のミュージシャンの場合ならば如何であろうか?
私はこれを、料理に譬(たと)えたい。
まず、作る料理の具体的な品種とは、何をどの様にそして何のために表現したいのか?と言う、その題材を選択した理由なり必然性・・・すなわち創作の動機に基づく目的意識であると定義する。
そして、その目的意識が希薄であると言う事は、料理を作る際の具材選びから、それをどう調理して行くかと言う事を事前に決めないと言う事であるからして、ある種、その瞬間の気分を現在知り得る調理法のみで表す即興演奏・・・あるいは鼻歌の様なものに該当するであろう。しかしこれは、後に整理されたり意味づけされる事によって明確な主題を持った楽曲に変る可能性もある。また、後にも述べるが、ここではおそらく現在知り得る調理法・・・すなわち過去実際にコピーして弾いた経験があるもの、もしくは自分が作ったりした既存の楽曲からの影響が色濃く出てしまう可能性が高い。ただし、もちろん新たな発明や発見が無意識の手癖から偶発的に派生する事も否定は出来ないが・・・。
次に、技術には基礎と応用とがあり、おそらく調理器具等の鍋や、具材を加熱するための火力等のエネルギーは料理にとっても技術にとっても基礎であり必要不可欠なもので、調理器具とは例えば歌詞を作る際に必要な最低限の文法やギター・コードの押さえ方(あるいは外し方)であり、火力等のエネルギーは体力や集中力に当たるのものと思われる。
よって、調理器具の種類が多ければ、それだけ表現の幅(可能性)も広がり、火力等のエネルギーが強ければ、それだけ作品の完成度やリアリティを突き詰める(煮詰める?)事も可能となり、出来上がった料理の味わい深さも増すのではないだろうか。
ゆえに、基礎はある程度あった方が・・・否、あればある程、楽曲にもしっかりとした骨格とくっきりとした輪郭を持たせる事が可能となり、その結果、表現せんとする題材が明確かつリアルに反映された精密かつ濃密な作品を生み出す事も出来る様になるはずなのだ。
・・・とは言え、あいまいな感情や不安定な気持ちを表したい場合には、逆にそれが障害となる場合もあるだろう。しかし、おそらく・・・ではあるが、それが良い事か悪い事かは別として、基礎を身に付けるための訓練を続けていれば自ずと精神力も安定して、そもそもその様な表現をしたいと考える事もなくなるのではなかろうか。
いずれにせよ、演奏者にとっては楽譜なり楽曲を正確かつ完璧に再現する能力が、作家にとっては感情なり思想を音符の配列具合へと可能な限り明確に変換する能力が、それぞれのクオリティを図るものさしとなるべきであろう。
そして最後に、技術の応用についてであるが・・・。
時間が無いので、今日はここまで。
(つづく)