思えば、幼少時の私は家庭内において屁理屈ばかり言う子供であった。
・・・否。正確に言うなれば、「屁理屈ばかり言うな!!」と怒られてばかりいる子供だった・・・のだ。
「今でもそうでしょ!!」って?違うっちゅうの!!これからそれを説明するから!!
そう。私は屁理屈なんて言ってないのだ・・・と言うか、屁理屈を言ってるつもりなど毛頭ないのである。
そもそも、“理屈”などと言うもの自体が、ただ単にその時点で明らかに多くの人から良しとされるものを言葉によって説明したもの・・・と言うか、さもそれが未来永劫誰の目にも正しいものであるかの様に都合良く理論付けしたものに過ぎないのだから、その基準や嗜好が合致しない少数派にしてみれば、「そっちの方こそ屁理屈」と言うか、排他的抑圧的ご都合主義的な蛮行とさえ呼べる異なる価値観や人生観の押し付けでしかないのだ
○○人には○○人の、○県民には○県民の、身長○センチの人には身長○センチの、読書好きには読書好きの、それぞれ異なった理屈があって当然。
あの時、私の親は私に対してこう言うべきだったのである。
「我が家の理屈(掟)に従え!!」・・・と。
すなわち、あれは屁理屈なんかではなく、理屈と理屈の対決であり、価値観と価値観の対峙であり、異なる考えを持つ者同士の対(タイ)トルマッチだったのだ!!
・・・と、下らない駄洒落はさておき・・・。(^^;)
しかし、唯一共通するものと言えば、やはり「人間は必ず死ぬ」って事に尽きるだろうか。
人間はいつか必ず死ぬ。貴方も私も・・・。
○○人も、○県民も、身長○センチの人も、読書好きの人も・・・。
だから、あんまり偉そうにするものではない。
「どうせいつかは死ぬくせに。」
・・・と、私は謙虚に自分を戒める。
それにしても「死」ってやつは、何故にここまで偉そうに人間を威圧し畏怖させ萎縮させるものなのであろうか・・・。
ゆえに、「生きると言う事」は、「死」を遠ざけ、「死」を避け続け、放っておけば「死」に向う人間の宿命に抗い逆らい歯向かい続ける事でもあるのだ。
つまり、要するに私が「理屈」だか「屁理屈」だかを主張するその理由とは、生きようとするがゆえに、自分を脅かしたり頭ごなしに抑えつけようとする“力”みたいなものに対して反発しているだけの事なのである。
よって、貴方の子供が貴方にとって不都合な理屈・・・すなわち貴方が“屁理屈”と断罪する様な反論をしたならば、頭ごなしに叱るのではなく、「ああ、この子は必死に生きようとしているんだな。」・・・と、誉めてあげて欲しい。
その子は将来きっと、自分の力で自分の人生を切り開く事でありましょうぞ。
子供を抑圧し過ぎて、○したり、逆に○されたりしないようにしたいものデスわね。
オホホホホ・・・。