え~・・・まあ決して、それだけって訳でもないのデスが・・・。
やはり、私は特に、IGGY&THE STOOGESの「SEARCH&DESTROY」に代表される、「疎外され孤立した(あるいは少数派の)人間が自分の存在や主張を認めてくれと悲痛な叫び声をあげる」様な音楽が大好きなのでありマス。
よって、ライヴ・ハウスでロック・バンドの演奏を聴く際には、常に「SEARCH&DESTROY」が頭の中で鳴り響いておりマシテ、どうしてもそれを基準にして好き嫌いを推し量ってしまう訳なのデス。
しかしながら、当然の如く、それに見合う様なものって殆どなくて、本当に本音の本音を言えば、独りで部屋の中で好きな音楽を聴いてる方が良い・・・ってな事にもなりがちな訳でありマス。
ただ、それが技術的な問題なのかどうかは解らないけど、完成度や真実味こそいくらか劣るものの、確かにその路線っちゅうか、疎外感や孤独感と言った人間が抱く負の感情に基づいた表現ってのはある訳で・・・。
要するに何が言いたいかと言えば、多少の物足りない部分はあるにせよ、それはあくまでも娯楽として成立しているかどうかと言う点における音楽の一要素に過ぎなくて・・・。
自分が目一杯楽しめるかどうかって問題を抜きにすれば、そのくらい我慢出来る・・・って訳でもないけど、やっぱ決して嫌いではない訳デスよ。
それよりもむしろ、その表面的な部分だけしっかり成立してたとしても、その根っこと言うか創作動機や表現動機に共感出来なければ、それがどんなに立派な形状をしていようが、やっぱ好きにはなれないって事で・・・。
ましてや、その表現の核たる部分と言うか、発生源たる衝動なり情熱もない上に、出来上がったその形状が出来損ないであれば、それはもう、この口からありとあらゆる罵詈雑言を吐き出しても気が済まない訳なのでありマス。
何と言うか、もう・・・上手い下手の次元では絶対になくて・・・。
そもそも何も表現してないと言うか・・・。
別に、メッセージや主義主張がどうだって事でもなく・・・。
優れた音楽的技術を持つ人の演奏は、何か表現したいものを持ってなくても、その技術自体が「音楽がもたらす気持ち良さや心地良さを出来るだけ正確に、かつ最大限に伝えたい」って言う、ある意味一つの素晴らしいメッセージでもある訳だしね。
こう・・・上手いとか下手とか、人気があるとかないとか以前に、やっぱ人前に何かを晒す資格とか基準ってあると思うのよ。
それはきっと覚悟って言うか・・・。
もしも自分のやってる表現行為やその内容が批判されたら、最早生きていけないってくらいダメージを受ける程、その音楽なり表現行為に対して自分がこの世に存在する意義って奴の比重をかける事・・・とでも言うのか。
いずれにせよ、その“重さ”みたいなものに対して、人は感動したり共感したり拍手するんだと思うんだよね。
例えば、南極大陸横断の冒険とか見てても、わざわざ寒くてつらい思いをしにあんな所へ行くなんて、冷静に考えればナンセンス極まりない愚行に過ぎない訳だけど、そこに賭けられているものが破格に重いからこそ感動を呼ぶ訳で・・・。
そして、感動ってものが客観的に判断され得る技術や能力とは無関係だって事の証拠に、「はじめてのおつかい」において幼児が自分の通常出来る事以上の目的や任務を達成しようとする姿を見た時にも、そう言った感情は芽生えるしね。
要するに、それぞれの身の丈とそこに注ぎ込まれるエネルギーとの比重と言うか、配分の割合こそが重要な計測対象なんだって事かな。
更に言えば・・・。
自分を満足させてくれるかどうかって事は判断基準のひとつとして確かにあるんだけど、それってあまりに受動的過ぎるって言うか、消費者体質って言うか・・・いや、それはそれで決して間違ってはいないんだろうけど・・・。
何にせよ、自分本位な基準だけを押し付けるのではなく、少なからず対象物に愛情を注げる様になったって事は、私自身が、おそらく極めて少人数でありながらも世間様から認められていると言う実感なり自信を得ているからなのでありましょうか。
ゆえに今後、私が何かを痛烈に批判したとするならば、それはきっと、「よっぽど酷い」・・・のであろうと判断して頂きたく・・・。m(_)m