今回の理論は、前回の補足的な意味合いを持ったものとなるが・・・。
まず初めに、天才とは世の中に対して何かしらの表現行為なり作品を発表したり提示したりしている人達のみを指している訳ではなく、中には一銭の金にもならない庭木の手入れであるとか、誰も求めず喜ばぬ対象物を研究していると言った場合も往々にして在り得ると言う事。
要は、ただありのままに生きているだけでは、自分を満足させる事が出来ないと言う所が重要なポイントなのだ。
そしてまた、こうも言える。
天才とは常に、自己の精神の葛藤と共にある生き物なのだ・・・とも。
・・・とは言ったものの、確かにこの世の中には、私が定義した天才・・・すなわち負からの脱却を主要な動機とする彼らとは異なる性質を持っているにも関わらず、プロフェッショナルな仕事もきちんとこなせるし、素晴らしい業績を成し遂げる事が出来る人達が存在する事も事実。
更に、それはその当人が生まれつき備わった既得権益にあぐらをかかず、本人自ら人並以上に努力して高度な技術を身に付けたり才能を伸ばして来たと言う事にも間違いはない。
しかしながら、生まれつき、そして繰り返し自分の価値や存在を“肯定”され続けてきたがゆえに、自らが自らを“肯定”する事がごく当たり前に出来、更には誰かから“肯定”される事から得られる快感を充分知り尽くした彼らが、前向きかつ意欲的に物事に取り組めるのは当然の事・・・否、それ自体が快楽ですらあろう事を考えれば、その様な人種を指して天才と呼ぶのは適当ではなく、言うなれば彼らはエリートとでも呼ぶべき人種であろう。
ただし、そんな彼らも、虐げられ踏み躙られ続けた自分、そしてそんな自分と社会との関係性を劇的に変化させんとの自己闘争に明け暮れる天才と呼ばれる人種に比べ、ちょっとした挫折で簡単に挫けてしまったりするのだから面白い。
まあしかしそれは当然の事で、エリートと呼ばれる人種・・・もちろんそのすべてがとは言わないが、彼らは物質的あるいは精神的に豊かであったがゆえに、それまで自己の精神の葛藤と向き合う必要が殆どなかったからなのである。
“肯定”・・・それを愛情と呼ぶ事に、大きく差し支えない。
言うなれば、エリートとは必ずしも生まれつき物質的に豊かであったかどうかと言う事ではなく、自己の価値や存在を肯定される事によって、そこから得られる喜びを知り、更にそれを前向きに追い求め、プラスにプラスを重ねる人生を送る事が出来る人種の事を指す。
しかるに天才とは、生まれつき、もしくはその成長過程において“否定”を前提とした育てられ方をしたがゆえに、“肯定”・・・すなわち“愛情”を得るためには、今現在のありのまま自分を否定し、何かしらの能力なり魅力を身に付けなければいけないのだと、もはや強迫観念にも似た義務感なり使命感を自らに課している様な人種の事を指すのである。
よって、天才の一生を省みる時、そこには幸福に満ち足りた安穏な人生などなく、そしてまた彼らが何事かを成し遂げんとするその途上には、何故かしら“復讐”と言う言葉が頭をよぎるのは、私の気のせいだけではあるまい。
そこで、それらを踏まえ改めて考え直して見ると、一見エリートの様に見える人達の中にも、格式や伝統のある家系ゆえに生み出された歪な親子関係から、一般家庭には在り得ない異常なまでの抑圧を受け、悲しき負の連鎖を背負わされた“天才”と呼ぶべき人達も少なからず存在する事も否定し得ない事実ではあろう。
だがしかし、敷かれたレールから足を踏み出せず、家柄と言った鳥篭から自ら抜け出さず、伝統と言う名の宿命に抗わずひれ伏していると言う点においては、エリートも単に“優秀な闘犬”、あるいは“有能な凡人”であるとしか思えないのは、私だけであろうか。
ちなみに、私にとっての凡人の定義とは、“自己の精神の葛藤と決して向き合おうとしない者”・・・である。
(つづく)