私は、どちらかと言うと言葉の人だった。だから、ロックにせよ、歌謡曲にせよ、言葉のセレクト、用い方、歌詞には非常にコダワリをもって接してきたつもりだ。しかし、ここの所、言葉に対しての不信感と言うか、無力感を如実に感ぢ始めている。
数ヶ月前に、イスラエルの舞踏グループ「シアター・クリッパ」の人達と、来年も木幡と共演する、やはり舞踏家である工藤丈輝氏の共演に、木幡がバックの演奏で参加した舞台を観たのだが、舞踏初鑑賞の私にとっても、これは実に素晴らしいものであった。抑制の効いた、緊張感あるステージ、想像力を刺激するパフォーマンス。舞踏ゆえ、当然なのだが、言葉、言語は一言足りとも登場しなかった。
そして、終演後、初対面の工藤氏に、私は様々な言葉を用いて賞賛を口にしたのだが、自分がいかにうわっつらだけの薄っぺらい人間であるかを、ことさら宣伝しただけの様な気がして、とても恥ずかしくなった。
マラソンで一位になる、あるいは完走するだけでも、実際に行なうのは楽では無い。しかし、「私はマラソンで一位になった」と言う言葉を口にする事は、実にたやすく、嘘でも言える。しかし、いかに巧みに言葉を弄しても、実際にマラソンを完走した人には敵うべくも無い。
うわべの、浮わついた、うつろいやすい言葉と言うモノは、しょせん代用品でしかない。現実に肉体を酷使、あるいはこころをすり減らした人間同士でないと通ぢない事もある。
逆に言えば、だからこそ、言葉に対して、もっと責任を持つと言うか、慎重に接する必要がある。
その言葉の持つ表面的な意味合いでは無く、何故、その言葉を選んだのか。その言葉を用いるに至った必然性。動機、意義、意図する所に注目したい。