「正しい」って事は時代や地域によって異なり、今まで「当たり前」だと思い込んでた事も他所では全く通じなかったりするもの。
更には、個人個人や各家庭によって、時にそれらは大幅に食い違う場合もある。
よって、生まれ育った時代なり地域が異なれば、その考え方や価値観が異なって当然。
しかるに、その根底にはある一つの共通する基準があり・・・。
それが何かと言えば、いずれにせよ誰かしらの意図なり利益なり目的によって「正しい」だとか「当たり前」だとかって事は決定づけられるに過ぎないのだと言う点であろうか。
ゆえに、その差異を埋め、互いに理解し合おうとするならば、相手そのものの、もしくはその相手の生まれた時代なり地域に関しての情報を良く知る必要がある。
そして、「迷信」と言う名の無意識の脅迫から逃れたいのであれば、今現在「正しい」とされている事や「当たり前」であると思い込まされている事を、「まず疑い、良く確かめ、正確に知ろうとする」必要があるのだ。
そもそも、「迷信」とは「無知」から生まれるもの。
また、歴史を振り返ると、民衆を無益な競争に駆り立てる事によって利益を得る権力者は、その競争を煽るために民衆を階級分けする必要があった。
階級制度とは、「差別」を生み出し民衆を分断するために意図的に作られた社会構造なのだ。
すなわち当初、「差別」とは意識的かつ人為的に生み出されたものだったのである。
しかし現在は、権力者が自ら手を下さずとも、民衆の方で勝手に「階級」を作り「差別」を生み出してくれる時代。
言わずもがな、「差別」を生む元凶も、人々が「無知」であるがゆえに他ならない。
だから権力者にとっては、民衆が「無知」のままで居てくれる方がありがたいのである。
何故ならば、わざわざ手を下さずとも、放っておけば民衆自身が勝手に、自らを「無知」と言う名の盲目の牢獄に繋ぎ止め、不毛な階級差別や権力争いに血道をあげてくれるのだから・・・。
それが、権力者を更に肥え太らせる事になろうとは露とも知らず・・・。
今あるものがすべて「正しい」だとか「当たり前」だと思うなかれ。
今あるものがすべて「正しい」訳でも「当たり前」な訳でもない。
何故ならば、それは誰かにとってのみ都合が良いように意図的に作り出されたものに過ぎないかも知れないからなのだ。
ましてや権力者とは、とかく御都合主義な生き物。
知ればきっと、目が覚める。
知れば知るほど、怒りが湧く。
繰り返しになるが・・・。
「迷信」と言う名の無意識の脅迫から逃れ、「無知」と言う名の盲目の牢獄から解放されるためには・・・。
「まず疑い、良く確かめ、正確に知ろうとする」事。
それ以外に手立てはない。
・・・とは言ったものの・・・。
さりとてこれは、“困ってない人”には無縁の話か。