貨幣とは言わずもがな、国家(及び国家間)と国民との契約に基づいた社会的信用によって成り立っている。
よって、自分の所有物であるリンゴを、そのもの自体は食用ではない貨幣と交換しても、再び自分がその貨幣で他人から食料を購入する事が出来るから、手元のリンゴを失ってもとりあえず飢え死にする事はない。
・・・否、むしろ、リンゴだけいっぱいあってもしょうがないし、リンゴは放っておけば腐ってしまうから、それを一旦貨幣に交換して保存(貯蓄)しておけば、たとえリンゴがその後不作になったとしても、いつでも自由に好きな食料を購入する事が出来る。
ゆえに、人は貨幣を求め、自分の未来・・・ひいては自分の子供の将来や子孫のために貨幣を集め増やし貯蓄に励む訳であるが・・・。
超大規模な地球的災害が起き国家が消滅・・・とまでは言わなくとも、食料が大幅に不足すれば、いくら貨幣を持ってても、誰かに食料を売ってもらえなければ空腹は満たせないのである。
すなわち貨幣とは、法律なり掟によって形作られた国家なり社会的な集団あってこその便利な道具に過ぎず、それがいつまでも続くものであるとの信用(幻想)の下に、貨幣制度は成り立っているのだ。
しかるに、これが例えば、雪山で遭難中の二人であればどうだろう?
ある程度までは友情や人情で何とかなるであろうが、極限下におかれた場合、一方がもう一方の持つ一かけらのチョコレートを売ってくれ(貨幣と交換してくれ)と懇願したとして、果たしてそれが受け入れられるだろうか?
この場合、圧倒的に力を持つのは一かけらのチョコレートであり、後に命が助かる見込みもない状況で、仮に一億円と言う大金を提示されても、(それが後日、確実に遺族に支払われると言う確証でもない限り)それに応える者は一人もいないだろう。
しかも、下手すると殺し合い・・・すなわち暴力によるチョコレートの奪い合いすら発生しかねないのである。
また、今度はこれが無人島に漂着した二人であればどうだろう?
果実なり獲物を獲得する能力がない者が、その能力のある者に対し貨幣を差し出して交換を要求しても、能力のある者が収穫物(果実なり獲物)の保有数に余裕がなく自分が飢えをしのぐのに精一杯であれば、その願いは到底聞き入れられまい。
要するに、その価値を国家が保障するからこそ、そしてまた私達が貨幣の価値を信用しているからこそ貨幣制度は成り立つ訳で、その信用が失われた状態もしくはそれ以上に最重要とされる価値(極限下における飢えを凌ぐための食料等)が存在する場合は、貨幣など何の力も持ち得ないものなのだ。
・・・とは言え、チョコレートを暴力で奪う者が優遇される様な原始的かつ野蛮な世の中が良いかと言えば、もちろんそんなはずはない。
しかしながら、果実なり獲物を獲得する能力を初めとした、人それぞれが持つ固有の能力や技術と言うものは、本来ならば貨幣なんかよりもずっと価値のある事であるはずなのだ。
ところが貨幣制度と言うものは、その人それぞれが持つ固有の能力や技術なんかよりも、貨幣を多く所有する者のみに力(自由や権利)が与えられる・・・否、そうするための制度だと言っても過言ではない。
・・・そもそも、法律自体が権力者や資本家を護り優遇するためのものなのだから、それもむべなるかなではあるのだが・・・。
それらを踏まえて考えれば、私達が本当に敬意を払うべきものとは一体何であるのかって事が、お解り頂けるものと思う。
そう・・・。
いつなんどき覆されるかも知れぬ約束を信じ、ただただ貨幣を求め、貨幣を蓄えようとする人生の、何と虚しい事か。
ましてやそれを崇め奉り、その制度に屈服するなんて・・・。
それにつけても、この景気の悪さよ・・・。
あ~あ・・・。
もっと金があればな~・・・。
これが本音・・・。(TT)
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