本当に“強い人”とは、如何なる病原菌に犯されようとも病気にならない、ある意味“鈍感な人”であり、その反対に“弱い人”とは“敏感な人”である。
よって、本当は“弱い人”が病気を防ごうとするためには、大きく分けて二種類の方法があり・・・。
ひとつは、あえて病原菌に我が身をさらす事によって、自身を鍛えて行く方法。
そしてもうひとつは、病原菌が一切寄り付かない様に、自身を隔離する方法である。
前者は言うまでもなく、病原菌に慣れる事で耐性を強め、良い意味で自分を鈍感にして行くやり方で、これなら確かに自分を本当に強くする事も出来よう。
しかるに後者は、病原菌を一切遮断する・・・すなわち良きにつけ悪しきにつけ、この先起こり得る未知の可能性を徹底的に排除する事によって、一時的かつ擬似的に自分を病気から遠ざけているだけに過ぎず、それがどの様な意味を持つかと言えば・・・。
それはただ単に、自分自身の立場を優位かつ安全な場所に逃避させているだけの事であり、その護られた位置なり地位においてのみ通用する相対的な“強さ”を獲得しているに過ぎないのではなかろうか・・・と。
もっと具体的に言うなれば、こうである。
要するに、自らに不利益をもたらす意見や自分にとって都合の悪い思想をすべて排除する事によってのみ成り立つ強さなどと言うものを、それが本当の強さであるとは到底呼べまい・・・と言う事だ。
冒頭でも述べたが、本当の強さと言うものは、如何なる病原菌に犯されようとも病気にならない、悪く言えば鈍感、良く言えば強靭さにこそあり、すなわち・・・。
本当に強い人間とは、自らに不利益をもたらす意見や自分にとって都合の悪い思想をもすべて許容した上で、しかしなおかつ揺るがぬ意志を持ち続ける事の出来る者・・・なのである。
また、ここで言う“揺るがぬ意志”とは、何が起きても不変であると言う意味では決してなく・・・。
時と場所に左右されて容易に変化し得るそれら如何なる条件下においても、常に自らに備わった確固たる秩序や規律に基づいて的確な判断を下す事が出来る、その志向性の確かさの強度を指すものなのだ。
つまり、もっと解り易く言い換えるならば、思考は常に流動的である事が望ましく、しかしまた、なおかつそこには方位磁針の如く一貫した基準が備わっていなければ無意味なのである。
ゆえに、もし仮に、民主主義と言うものが少数意見を無視し反対意見を抹殺する事を正当化するために用いられるのであれば、これほど危うい事はない・・・と言う話になるのだ。
そもそも、民主主義国家にせよ独裁国家にせよ、人間が人間を支配する社会なんぞ、ろくなもんではない。
人間を、そして社会を支配するのは確固たる秩序であり規範であるべきで、そしてまた、その秩序や規範とは、ある一部の人間の私利私欲を満たすためだけのものであっては絶対にならないはずなのである。
ましてや、貨幣こそが至上の価値を持つ世の中などと言うものは、そう言った秩序や規律よりも人間の本能や欲望のみに重きを置く、まさしく獣の王国であると言えよう。