まず初めに、善人の定義とは?
私が考える善人とは、世間で言う所の善人・・・すなわち善のみで構成された偏った人間の事ではない。
人間とは本来、当人の出自や資質などではなく、自身がその人生において自ら為した行為や成果によってのみ、評価もしくは断罪されるべきゆえ・・・。
私が考える善人とは、こころの内に善も悪をも内包しつつ、しかしなおかつその悪を退けて善を選び取り行使出来る人間の事を指す。
何故ならば、善のみで構成された人間は元より悪を知らぬがゆえ、その狭間で精神の葛藤に苦しむ訳でもなければ、強靭な精神で自身の利己的な欲求を抑えつけている訳でもなく、ただただ自分の出来る事や得意な事を当たり前の様に行っているに過ぎないからである。
よって、もっとも厄介な問題は、彼らは善しか知らぬゆえに、自身の行為をすべて善であると思い込んでしまいがちであると言う点にこそあるのだ。
言わずもがな、誰かの善意に基づく行為が、必ずしも他の誰かに喜びや幸せをもたらすとは限らない。
例えそれが善意以外の何物でもない真心に基づいていようとも・・・である。
しかるに、善しか知らぬ者は、自らのこころの内にも、もしかしたら他人にとっては悪となり得る要素があるのではなかろうかなどと言う事を疑いさえもしなければ、自分のしている行為がもしかしたら他の誰かにとっては善ではない可能性が少なからずあるのかも知れないと言う事に対し思いを巡らせる事すらしないのだ。
・・・とは言え、それもむべなるかな。
彼らは自分のこころの内に善しか持ち得ぬゆえに、他人のこころの内に善と悪が共存していようなどと言う事に対しては、露とも想像力が働かないのである。
これが、自らのこころの内に善と悪とを併せ持つものであれば、他人のこころのうちにも、おそらく善と悪が共存してるものとの発想にも容易に至るのであろうが・・・。
ゆえに、彼らが悪を憎む気持ちは、まさしくこの世に存在してはならない凶暴なケダモノを見るかの如しであろう事も、想像に難くない。
だからこそ、彼らは悪人を必要以上に憎むのであり・・・。
当然の事ながら、そこには共感と呼べる感情など芽生え得ようはずもない。
・・・否、確かに多くの人間はこころの内に善も悪をも内包しつつ、しかしなおかつその悪を退けて善を選び取り行使する事が出来るがゆえに、それが出来ない人間は断罪されてしかるべき。
しかし、こころの内に善も悪をも内包している人間にしてみれば、それは未来の自分かも知れないと言う気持ちがこころのどこかに必ず燻っているがゆえ、ただただ悪事を働いたと言う点のみではなく、どれ程の欲望に耐え切れなかったのかと言う、その度合いこそが重要な判断材料となるのである。
ちっぽけな目先の欲望のために弱者を踏みにじったのであれば、それは許せないであろう。
・・・がしかし、理不尽な抑圧に耐え切れず、勇気を出して自分よりも強い者に刃向ったのであれば、その場合は・・・?
だがしかし、こころの内に善しか持たぬ者にとっては目に見えて現れた悪人や悪事がすべてであり、この世の中に既にそれが常識であり正義であるかの様に厳然と存在する一部の者にとっては“私利私欲を満たすための方便”でしかない事柄に関してもまるで無批判・・・と言うか、むしろそれを疑う事なく従う事こそが正しい行いなのであると思い込んでさえいるのである。
繰り返しになるが、善しか知らぬ者は、自らのこころの内にも、もしかしたら他人にとっては悪となり得る要素があるのではなかろうかなどと言う事を疑いさえもしなければ、自分のしている行為がもしかしたら他の誰かにとっては善ではない可能性が少なからずあるのかも知れないと言う事に対し思いを巡らせる事すらしないのだ。
また、彼ら善しか知らぬ者には他人のこころの内にある“悪”を見る事など出来ないし、もし仮に、自分のこころの内に無い要素が他人のこころの内に存在したとしても、そもそも自分が知らぬものを、それが何であるかなどと認識する事など不可能なのである。
それゆえに、善しか知らぬ者にとってみれば善が常識であり常識は善であり、それが如何なる悪意の下に創造された常識であろうとも、疑う事なく従い続ける事こそが善なのだ。
かくして、善しか知らぬ者すなわち悪を知らぬ人間が蔓延る社会は、こころの内に善と悪とを内包する凡人には非常に生き難い世の中となり・・・。
その様な押し付けがましい常識とやらに迫害された人間が世間の隅へ追いやられ、行為としての“悪”を為す結果とも成り得るのである。
いずれにせよ、他人の気持ちが解らない人間に他人を救う事など出来るはずもなく・・・。
今日も明日も、粛清と言う名の弾圧は続くのであろう。
善しか知らぬ無慈悲な人達による・・・。