Mr.エレクトの独り言 「酷使の美学」④

Mr.エレクトの独り言

自主レーベル及び、日本人中古貴重盤ショップ、『エレクトレコード』オーナー、Mr.エレクトによる独舌日記!!

「酷使の美学」④

先日、無事にVIRGIN ROCKSのDVDも発売された訳でありマスが・・・。

思えば、バンドにしてみればライヴをやれば「WA-KA-ME(初期カムズの曲)やって~!!」と野次られ、ファンにしてみれば再結成カムズやVIRGIN ROCKSの魅力を周りの人間にいくら説こうが「カムズが良いのは初期だけでしょ」と軽くあしらわれ、不当に迫害を受け続けた同バンドも、今回の貴重映像と来月発売となるベスト編集CDによって、音楽的にもきちんと再評価される事でありましょう。(:;)

ちゃんと聴けば、実はカッコ良い曲がいっぱいあったんだって事が解ると思いマスYO!!(^^)b

・・・さて、それでは本題。

「人間は追い詰められると本性が出る」とは良く言われる言葉でありマスが、「酷使の美学」において、その辺りをどう考察するかと申しマスれば・・・。

要は、如何なる極限状態にあろうとも理性を失わない事・・・すなわち全力を尽くし全能力を注ぎ込んでなお、確固たる美意識を貫き続ける姿勢こそが、それに当りマス。

そもそも、自分が持てる能力の範囲内で何かを為すのであれば、まだまだカッコつける(体裁を保つ)事などいくらでも出来る訳なのでありマスが、自分が持てる能力のすべて、もしくはそれ以上のエネルギーを搾り出して創作や演奏を行ってなお、更に自分の定めた「こうあらねばならない」と言う“美の基準”を保ち続けると言うのは、そうたやすい事ではないのデス。

私が何故、THE EXECUTEを活動初期に比べ世間の評価が低い後期まで通い続け、今も愛聴しているのかと言えば、LEMMY氏の創る楽曲には現在の活動形態であるDARKCELLに至るまで、作品中にそう言った美意識が一貫して透徹されているからであり、表面的なスタイルや形状とは無関係に、自らをその厳しい審美眼によって律し続ける姿勢にこそ、ハードコア・パンクの精神を、そして「酷使の美学」を感じてやまないからなのでありマス。

そしてそれはそのまま、マリア観音にも当てはまる事なのデス。

過去に私が考えた、いくつかのキャッチ・コピーの中に・・・。

「マリア観音の魅力とは、ある一線を越えるトゥーマッチなまでの爆発力であり、更にはそのエネルギーが無秩序に暴走せぬ様、揺るがぬ規律によって貫かれる事によってのみ現出する恍惚的なまでの美しさ。それらは狂人の如き肉体の酷使と、強靭な理性の行使を以って初めて成し得る極めて稀な成果である。」

・・・と言うものがありマスが、これこそまさしくマリア観音/木幡東介が音楽を通して表現し続けた「酷使の美学」を言葉で言い表したものとなりマス。

全力を尽くし全能力を注ぎ込む事とは、言わばすべてをさらけ出して裸になる事。

そこでは、洋服をとっかえひっかえする事によって成り立つ表面的な美、すなわち地位や名誉や人気や権威など通用せず、あくまでも一人の人間が持ち得る誇りと矜持の度合いのみが問われるのデス。

よって、いくら見栄えが良くとも、中途半端に余力を残したまま世間からの批判を浴びぬ程度にうわべの体裁のみを保つ、燻り淀んだ死にぞこないの生命などと言うものは、真の美にあらず。

むしろ、目的を達成するために死の一歩手前まで自らを追い込んでなお、自らを律する美意識を手放すまいとする事・・・それこそが、「酷使の美学」と呼べるものなのでありマス。

ゆえにそれらは、人を創作に向わせる原動力となる感情の起伏の激しさもさる事ながら、そのエネルギーに秩序を与え形あるものへと変換するための、執念とも呼ぶべき徹底度がなくては不可能であり、そのどちらか一方が欠けても成り立たないものなのデス。

それにしても、何と素晴らしいのでしょうか。

「人間が目的に対して自己の能力を最大限に発揮する姿」・・・と言うものは。

この世で最も高級な娯楽は、人が命をすり減らしてまでも何かを為そうとする瞬間を見届ける事なのでありマス。

・・・であるからして。

「酷使の美学」無くして、人を感動させる音楽など創作し得ない・・・と、私は常々考えている次第なのデス。

(つづく)