Mr.エレクトの独り言 「酷使の美学」⑤

Mr.エレクトの独り言

自主レーベル及び、日本人中古貴重盤ショップ、『エレクトレコード』オーナー、Mr.エレクトによる独舌日記!!

「酷使の美学」⑤

そもそも、ただ「カッコ良い」だとか「好き」と言えば済む様な事を、どうしてここまで「何故そうなのか」「何処がそうなのか」などと、くどくど説明するかと言えば・・・。

実は、自分にとって「カッコ良く思えない」ものや「好きでない」ものが、「何故駄目なのか」「何処が駄目なのか」を明確にするために行っていたのだと言う事に気づいた方は、果たして居るだろうか?

・・・と、それは置いといて。

これは良く勘違いされるのだが、基本的に「酷使の美学」とは自己と他者との体力や身体能力の差異とは無関係である。

何故ならば、ここで重要とされるのは自己と他者との相対的な量の比較ではなく、「自分の全力」を出し切っているかどうか?そして「自分の全能力」以上のものを搾り出せるかどうか?・・・と言う点に尽きるゆえ。

また、それは「勇気」などと言う耳障りの良いものに基づいている訳では決してなく、ただただ「感情の起伏の度合いの激しさ」が、「自分の体力や身体能力の限界」を一瞬忘れさせると言うだけの話なのだ。

まあ要するに、これは「やけくそ」とでも言うか「通常は自分の身を守るために働かせている制御装置を自ら取り外す事」ででもあり、そこには「自分の生命を危険に晒す事も厭わぬ程に大切な事が他にある」と言う信念があるからこそであり・・・。

それすなわち、「肉体の死」よりも「精神の死」を最大の恥であると考えるからに他ならない。

ただ、この様な考え方は、所詮人気商売である音楽の世界にはなかなか当てはまらない様で・・・。

しかるに、スポーツや武道・・・中でも特にボクシングなどを見ていて常々思うのだが、全力を尽くして試合で負けた選手を、果たして誰がみっともないなどと罵る事が出来るだろうか?

そしてその逆に、卑怯な手を使って勝利を得たり、能力の差が歴然としている絶対に勝てる様な相手としか試合をしない者に対しては、「醜い」と形容するしか術がないのではなかろうか。

対戦方式である以上、結果的に勝者と敗者が明確になるとは言え、ボクシングに限らず、全力を尽くし自分の全能力を注ぎ込もうとする事でしか成り立たないスポーツや武道に我々が感動させられるのは、もちろん高度な技術の応酬を楽しむと言う観点もあろうが、そこには「人間が目的に対して自己の能力を最大限に発揮する姿」すなわち「酷使の美学」があるからである。

前回も述べたが、この世で最も高級な娯楽は、「人が命をすり減らしてまでも何かを為そうとする瞬間」を見届ける事なのだ。

もし仮に、それが解らない方が居るとするならば、それは「精神の死」よりも「肉体の死」を怖れているからであろうし、その様な人間であれば、私のこの偏った考えに共感など抱きようはずもないし、「酷使の美学」の価値など理解出来なくて当然である。

もちろん、私に言わせれば、目的に対して「全力を出し切らない事」や「全能力を注ぎ込もうとしない事」以上に恥ずかしくみっともない事はないのだが・・・。

さてそれでは、音楽の世界において「酷使の美学」を持たないものが、「何故駄目なのか」「何処が駄目なのか」を具体的に述べよう。(←結局言うのね・・・。)

まず最初に、彼らには原動力・・・すなわち動機に伴う熱量が不足している。

私は「もてたいためにバンドを始める事」を否定する派では全然ないのであるが、如何なる目的にせよ、「それを何としてでも成し遂げるのだ」と言う、半ば人格障害とも呼ぶべき強固な意志がそこになければ、「何かを追求しよう」だとか「何かを突き詰めよう」だのと言った探究心や集中力など生まれ得ないだろう。

更には、そう言った執着とも呼ぶべき探究心や集中力が欠如しているがゆえに、彼らはすぐに逃げる。

例えば、現時点で既に獲得している「人気」であるとか、ルックスだとか美声に代表される「音楽以外の、もしくは音楽を演る以前に持ち得る魅力」・・・に。

つまり、彼らはそもそも音楽に「自分の全力を出し切る」必要も、「自分の全能力以上のものを搾り出す」必要もないのである。

ただし、それならまだ、生まれつき備わったものであったり既に勝ち取った既得権益でもあるのだから、それを利用する事を責めるのは酷と言うものだし、いずれはそれらに頼らずとも揺らぐ事のない自分の魅力を生み出さねばならないのだとの考えに至る可能性も無くはない。

しかし、自分が創り上げた訳でもない「過去に既に良いものであると世間から認知されたもの」を、さも「自分の魅力」であるかの様に偽装したり、更に酷いのになると自分の作品が「過去に既に良いものであると世間から認知されたもの」に似ている事で安心したり「自分の作品にも同様の価値がある」と錯覚してしまう様な、権威の傘に逃げ込む事を良しとする風潮は、やはり批判されて然るべきではないだろうか。

そこに逃げ込めば、「自分の無能さ」とも向き合わずに済むけどね・・・。

現在、これだけ機材も発達し音楽を聴く環境も演る環境も飛躍的に改善されているのであるからして、既にあるものや過去にあるものは絶対に超えなければならないし、むしろ超えられていくのが当然なのだ。

「そんなの無理」と思えばやらなきゃ良いし、そう言った諦念を乗り越えてなお「やる動機」のある者だけがやれば良い・・・と、私は考える。

現代はすべてのパターンが出尽くして「オリジナル」なものなどもう創れない・・・と言う言葉を良く耳にするが、そんな事はない。

確かに、ジャンル分けされ得る様な「表面的な形態の特異性」に関しては殆ど出尽くしたと言えるかも知れないが、「独自性」すなわち「自己と他者との差異」を「内面的な構造の精密性」として追求する事はまだまだ可能どころか、殆ど為されていないのではなかろうか。

私にとってみれば、例えば「表面的にパンクに見える」事など全く無意味であり、それはただ単に「本質を見誤らせる弊害」に過ぎない。

音楽が自己と他者とを繋ぐ伝達作業の一種である事を踏まえた上で、無茶振りを承知で言うならば、音を聴いただけでその人の生き方や考え方が出来る限り正確に伝わる事が理想であり、「痛み」であれば聴く者にそれと同様の「痛み」を与えられる事が最も望ましい。

・・・が、いずれにせよ、これらは表面でしか物事を判断出来ない人には無理な注文であり、それゆえ、私がいくら「酷使の美学」の価値を訴えようが、「知らない者には見えない」のだから仕方のない事。

ゆえに私は、「酷使の美学」を知る者に向けて、ただただこのメッセージを発信し続けるのみ・・・。

ちなみに、「酷使の美学」を知る者を一言で説明するならば・・・。

それは、「肉体の死」よりも「精神の死」を怖れる者・・・となる。