「学問の意義」とはなんぞや?
本に書いてある事、すなわち既に知られた事実を覚える事か?
もちろん、基礎訓練としては、それも大事であろう。
何故なら、まずは材料を仕入れない事には始まらないのだから、「受動的」に情報を収集する必要は、絶対にあるのだ。
また、情報とは知識であり、何も本に書いてある事に限らず、親や他人の発言やしぐさ等からも得られるもの。
ただし、そこで大切なのは、その収集した情報なり蓄えた知識を、どう生かすか?・・・と言う点だ。
学生時代は別として、それは決してペーパー・テストの解答欄を埋めるためのものではあり得ない。
本当に重要なのは、その情報や知識を駆使し、自分の頭を使って「能動的」に思考する事ではないだろうか。
例えば、「宇宙誕生の謎」・・・。
もしくは、「人類の存在理由」・・・。
そんな事は、人間になど知り得るものではないかも知れない。
更に言えば、そんな事を知った所で、何の役にも立たないかも知れない。
しかるに、そう言った「能動的」な思考方法の経過なり結果が、人の人生に新たな喜びを与えたり、快適な暮らしをもたらしたり、病気や災害から人々を救ってきた事も事実。
もっとも、それが悪用されて、多くの人を苦しめる軍事兵器等を作り出して来た事も現実ではあろう。
だかしかし、そのノウハウや技術の使い道も含め、何が正しくて何が間違っているのか、そして、地球人類は如何にあるべきなのか、と言う事を考えるのも、やはりそう言った「能動的」な思考によるものなのではないだろうか。
よって、「学問の意義」・・・。
それは、より良く、正しい、「成長」なり「発展」を目指すためにあるのだ。
人間は、未だ「進化の過程」にある。
ゆえに、「停滞」=「死」。
・・・とは言え、ここでも、ひとつだけ言える事がある。
悲しい運命を甘んじて受け入れる事も、それはその人自身が選んだ、もしくはその人自身に根付いた価値観であり生き方であろうから、私はそれを否定するつもりはさらさらない。
ただ私自身が、傲慢かつ愚かにも、そう言った軋轢なり圧力に対し無抵抗で屈服する事なく、何とか少しでもそれらを乗り越えたいと考えているだけの話なのだ。
それを私は、学校教育によって覚えた。
本来あるべき「学問の意義」を見失わせるための、「反面教師」として・・・。