自分も若い時にそうであったゆえ、今だからこそ良く解るし、言えるのだが・・・。
「人間不信」とは、「自分かわいさ」と「他力本願」ゆえに生み出される感情である。
・・・とは言え、それには明白な原因もあるゆえ、私は何もそれを一概に非難しようと言う訳ではない。
ただ単に、「そうである」・・・と言うだけの話。
そもそも、「信じる」とは、何であろうか?
それは、誰かから何かをもらったり、してもらう事ではないはず。
よって、「信じる事」で、その対象となる相手が「自分に対して何かしてくれる」訳では全然ないのだ。
ゆえに、「(して)もらえなくて」当然であり、それは「裏切られた」訳でも何でもない。
むしろ、「信用」とは、こちらから「してあげる」ものなのだから、もし仮にその見返りを求めるならば、それは「借金の押し売り」であり「信用の押し付け」にしかならないのである。
また、「信用を置く」と言う言葉にも現されている通り、「信用すると言う事」は、「自分の命をその相手に預ける事」であるとも言えよう。
・・・否、「命を預ける」はちょっと言い過ぎで、しかし少なくとも「自分の運命なり未来の成り行きの、その一部分を相手に託す事」ではあるだろう。
だから、その覚悟すら無い者には、「人を信用する」などと言う行為をする資格などないのである。
・・・もっとも、「信用する事を強要された」のであれば、その限りではないが・・・。
そして更に言えば、「信用」と一口に言っても、それはその相手に対して、必ずしも「自分のすべてを預ける」訳ではないのと同様に、その相手の「どの部分を信用するのか?」と言う点も重要である。
すなわち、例えば「旅行の計画に関してはAサンが最も信用出来る」だとか、「昆虫の知識に関してはBサンが最も信用出来る」・・・と言った具合にだ。
その辺りを見極める事なく、「誰かを全面的に信用する事」は、「自分の命なり人生をその相手に委ねる」事であるからして、その責任はあくまでも「それを選び決定した自分自身」にある。
ただしもちろん、「親なり配偶者を信用する」と言った、「運命を共にする覚悟」が出来ている場合は、「それを他人がどうこう言う事こそが野暮である」と批判されてしかるべきであろうか。
しかしながら、もしも貴方がその対象となる相手と「運命共同体」で居る事を望まないのであれば・・・。
最終的には、やはり「自分で選び、自分で決定する」・・・しかないだろう。
何故ならば・・・。
「信用すると言う事」は、「自分の命、もしくはその一部を相手に預ける事」なのだから。