昨日のつづきとなるが・・・。
「何が本当で何が嘘か?」って事は、誰にも解らないとしても・・・。
私達は、そのいずれかを「自分で選び、自分で決定する」・・・しかない。
またそれは、「自分自身が何を信じて生きるのか?」と言う事でもあり・・・。
そして、「何が本当で何が嘘か?」が解らない状態で、それでもなお「何かを信じる」と言う行為は、言わば宗教に近いものであると、私は考える。
・・・もっとも、殆どの宗教とその信者との関係性は、信者側が自発的に「何かを信じている」のではなく、現実逃避と思考停止と他力本願の果てに、「他人に依存している(=自分の命なり運命を他人に預けている)」だけに過ぎない・・・。
しかるにまた、いずれにせよ信仰の対象すなわち「自分自身が何を信じて生きるのか?」って事は、人それぞれ異なる・・・と言うか、異なって然るべきなのであるからして・・・。
「どちらが正しいのか?」なんて事を言い始めたが最後、その先には争いしか生み出され得ないのである。
何故なら、そもそも「自分自身が何を信じて生きるのか?」と言う事は、「自分自身が何を求め、何を望むのか?」って事でもあるのだから・・・。
「正しさ」なんて言うものは、人ぞれぞれの価値観・・・否、そんなお伽噺の様な曖昧な分類が為されるべきではなく・・・。
現代社会における、その人その人の置かれた“立場”によって180度も違ってくるものなのである。
ゆえに、「何が本当で何が嘘か?」など誰にも解らぬ状態で「自分自身が信じる何か」とは、「自分が置かれた立場」における「正しさ」に過ぎぬ訳であるのだから・・・。
もしも、双方の意見が合わず対立している状況があったとしても・・・。
それは、「どちらが正しいのか?」を確認する作業などでは到底なく、ただ単にそれぞれの「自分が置かれた立場」の違いを確認し合っているに過ぎないのである。
よって、「自分自身が何かを信じる事」(=宗教)とは、「自分とは異なる立場に置かれた人間の考え(もしくは信仰)」を否定する事でしかないのだ。
・・・と言う事を誰もが自覚するならば、少しは争いも減るものと、私は考えるのである。
・・・が、さて、如何なものだろうか?
・・・と、これもまた私自身の、「自分が置かれた立場から導かれた正しさ」に過ぎぬ事は、もはや説明するまでもないだろう・・・。