Mr.エレクトの独り言 基準を明確にしない事の弊害

Mr.エレクトの独り言

自主レーベル及び、日本人中古貴重盤ショップ、『エレクトレコード』オーナー、Mr.エレクトによる独舌日記!!

基準を明確にしない事の弊害

理想とまでは言わないまでも、明確な指針なり目標なり基準と言うものがなければ、失敗や成功がもたらす精神の浮き沈みもない代わり、進歩や成長する事すらも有り得ない。

そこにあるのは、ただふらふらと、どっちつかずに漂うだけの物体である。

さてそれでは、何故に指針なり目標なり基準を明確にしないかと言えば、そんなものを求めさえしなければ傷ついたり失望する事もないからであり、他者との違いが顕在化しなくて済むからであろう。

そしてまた、他者との違いが顕在化するとはどう言う事かと言えば、この同調圧力に満ちた村社会においては、孤立する可能性が増すと言う事である。

しかるに、本来は人それぞれ、もしくは家なり国が明確なる基準を持つ事は当然であり、それこそが自立であり独立していると呼べる状態なのではないだろうか。

失望する事や孤独が怖くて基準を明確にしない状態、すなわち自立なり独立を志さない人間が集まる社会では、目先の寂しさを癒したり、目先の安心や快楽を得られるかも知れないが、そこには進歩も成長も発展もなければ、尊敬と言う概念も芽生え得ない。

本来、尊敬とは、自分とは異なる人格なり価値観を認める事であるはず・・・。

ところが現実はどうだ?

この社会は、異なる者を排除するか、転向(同化)を強制するか、その二つに一つである。

大人とは何であるかと言えば、大きい人などではもちろんなく、「大」と言う漢字を二つに分けた「一」「人」・・・つまり、「一人の人」の事を指す。

よって、それは要するに、「一人」でも「人」として成り立つ者・・・と言う意味なのだ。

ゆえに、それが成り立つためには、少なくとも精神的なり経済的(←不労所得は除く)、いずれかにおいて自立している状態である事が最低条件となるのである。

他人との違いを明確に出来ない、あるいは許容出来ないとすれば、それはその人自身が自立すなわち自分を独立して存在させ得ていない状態であるからに他ならない。

真に自立した人間にとっては、自立した人間と出会う事や自分以外の誰かが自立する事は喜び以外の何物でもないはず。

そもそも、他人の基準や世間の常識は多数決、もしくは勝利者(=権力者)によって暫定的に定められた一時の幻に過ぎない。

・・・であるにも関わらず、それに合わせる事のみに執心し、自分自身を独立させる事を怠る事は、もちろん心情的には理解を示したい所ではあるが、私にはそれが良い事であるとは到底考え難いのである。

繰り返しになるが、理想とまでは言わないまでも、明確な指針なり目標なり基準と言うものがなければ、失敗や成功がもたらす精神の浮き沈みもない代わり、進歩や成長する事すらも有り得ない。

・・・否、無理に進歩する必要などないが、狼に育てられた少女の例にもある通り、人間は生まれた時から人間である訳ではないのだから、少なくとも「人間になる」必要はあるはずだ。

もちろん、初めは周りの「大人」(=自立した人間)の力添えを受けながら、そしてまた自らそれを見よう見まねで吸収しながらではあるが・・・。

人間が成長すると言う事は、親にだけ都合の良いペットを育てる事でもなければ、ましてや飼い主(権力者)に利益をもたらすためだけの家畜を飼育する事でもない。

例え、学校や世の中がその様な目的のためにあるとしても・・・だ。

もっとも、最近は自立していない親が子育てをするのだから、家庭内で王様気分を味わったその子供が学校で異分子を排除しようとしたり、その逆に家庭内で虐待された子供が自分より更に弱い者に対してその仕返し(=負の連鎖)をする事が多くなるのは当然であり・・・。

何故そうなるかと言えば、そこには他人、すなわち自分とは異なる価値基準を持つ者、つまり明確な価値基準を持った自立(独立)した人間に対する敬意の念など微塵もないからである。

かくして、自立する事よりも多数決や同調圧力にひれ伏す事によってのみ自らのアイデンティティを保っている様な生き物達が、人間になろうと格闘している者の頭を踏みつけ足を引っ張ろうとするのが、今の日本の現状ではないだろうか。

そんな世にあって、尊敬の対象となり得るのは、貨幣や資産の量であり、より多くの人からの羨望を集める事の出来る知名度である事は、推して知るべし。

明確な指針なり目標なり基準を持とうとする事、すなわち同調圧力に屈せず、自立した人間になろうと行動する勇気など、この村社会では迷惑なだけなのだ。

何故なら、そんな彼ら(=自立しようとする人間)の存在は、潜在意識に燻る人間らしく生きようとする本能に薄々は気づきながらも同調圧力に屈してしまう様な臆病な人間にとって見れば、嫉妬の対象にしかなり得ないからである

だがしかし、自分自身が明確な基準を持たぬモラトリアムな飼育場に依存し居座り続けるだけならともかく、その様な人間らしく活き活きと生きようとする者を妬む事は、愚行以外の何物でもない。

・・・と、私は考える次第である。