Mr.エレクトの独り言 「えれくとズ・トーク」2

Mr.エレクトの独り言

自主レーベル及び、日本人中古貴重盤ショップ、『エレクトレコード』オーナー、Mr.エレクトによる独舌日記!!

「えれくとズ・トーク」2

「えれくとズ・トーク」
http://erect.blog5.fc2.com/blog-entry-2079.html
・・・の続きみたいなもの。


自殺の理由とは、主に二通りあり、一つはとにかく「ただただ、現在置かれている状況なり精神状態から逃れたい」と考えるゆえに、暑いサウナ室から扉を開けて外へ出る様な自殺である。

この場合、死後・・・すなわち扉の外には必ずしも心地良い世界が存在するとは限らない・・・と言うか、めくらのギャンブルの如く、そんな事すら考える余裕もなく、選択肢なり視野が大幅に狭まった状態で突発的に行なうものであろう。

もっとも、突発的とは言っても、そこに至るまでには人それぞれ差異はあろうし、それなりの熟成期間を必要とするではあろうが・・・。

しかるに、今回のN村Tよう氏の場合は、明晰な意識の下、明確な目的を持って、あらかじめその日に行なうと決めた通り、雨が降る程度の事では予定変更(こころがわり)する事もなく、速やかに決行したものである。

これは、余程の覚悟か決意、すなわち強靭な意志がなければ、なかなか出来る事ではない。

・・・とは言えもちろん、そもそも自殺しようなどと考える事自体が、視野狭窄な人間の発想であると言われれば、それも否定し得ない事実ではある。

しかしながら、これら二通りの自殺には大きな違いがあり、前者は外部からの抑圧なり影響から逃れるために行なうリアクション的なものであるが、後者はそれとは異なり、自らが今までそうして生きて来たと同様に自らの死期なり死ぬ方法を自らの意志で決定すると言う自発的なものであると、そう分類出来るのではないだろうか。

・・・否、後者にせよ、当然の事ながら社会や他者等、外部からの影響が全く無い訳ではない・・・がしかし、自殺しないと言う選択肢も間違いなくあった訳であるからして、やはり自らの意志でそれを選んだと言って差し支えないと、私は考える。

私はいつも言うのだが、自殺を許さないのであれば、自殺した人間に対しては悲しむのではなく、もっと怒るべきだと思うのだ。

「自殺なんかしやがって、この野郎!!」・・・と。

ただし、前者の場合は周りの人間の意見に対し聞く耳さえもたない状態である場合も多いであろうし、後者の場合はそれ(人が自らの生死を決定する権利)を他人がどうこう指図しても良いものなのか?・・・との疑問も生まれてはくる。

ゆえに、まだ分別のつかぬ子供であれば話は別だが、既に成人した人間の自殺を止める・・・すなわち他人が自らの生死を決定する権利を他の誰かが管理すると言う事は、その生・・・すなわちその人の生き方に関しても責任とまでは言わないが、その領域まで介入して初めて口出し出来る事柄なのではないか?・・・と、私には思えてならないのである。

すなわち、その人の死に方とは、その人の生き方そのものであり、それが一時の気の迷いなどではなく、明晰な意志の下で明確な目的を持って行なわれたのであれば、もちろんそれを批判する事も自由ではあろうが、それを止める事は“無粋”以外の何物でもないのではないか・・・と言う事だ。

そもそも、何故自殺がいけないかと言えば、もちろん身近な人や全くの他人にも迷惑をかける可能性が少なからずあるからであろうが、その論法で行けば生きていても周りの人に迷惑をかける輩など五万と居る訳である。

・・・トナルト、そこにはおそらく、「命を大事にしろ」だとか、「命を粗末にするな」と言った考えがその根底にあるのであろう。

だがしかし、今現在のうのうと生きている・・・もっと言えば、「ただ命を繋いでいるだけ」の私達が、果たして「命を大事に」し、「命を粗末にしていない」と、胸を張ってそう言い切れるのだろうか?

そしてその逆に、Tよう氏が、「命を粗末にする」様な生き方をして来たとでも言うのであろうか?

もちろん、誰にでも何にでも功罪はあるゆえ、同氏の為してきた事柄が必ずしも世の中に良い影響ばかりを与えて来たとは言わない。

しかしそれでもなお、私は問いたい。

自分の命を大事にする余り、何ら冒険せず、何にも挑戦せず、何ひとつ築かず、誰も救わず、誰にも与えず、誰ひとり護らず・・・ただただ命を繋ぐ事で精一杯の私達に、自分の“命を使って”何かを為してきた人が自らその幕引きをする事に対して、何の批判が出来ようか?・・・と。

「生きる事」とは、ただ「命を繋ぐ」事ではない。

「生きる事」とは、「命を使う」事である。

「命を大事にしろ」だとか「命を粗末にするな」と言うのであれば、その命とやらをもっと意義ある事に使うべきであると言う事は言うまでもない。

よって私は、「お疲れ様デス」もしくは「ご苦労様デシタ」としか、Tよう氏にかける言葉が見当たらないのである。

「生きてもない」のに「死なんかない」。

だから、私なんかには「自殺する資格」などまだ無い。

「死ぬ権利」とは、「精一杯、生きた者」すなわち「命を目一杯使った者」にしか与えられない勲章の様なものなのだ。

・・・と、私は考えるものである。