人間とは、自分に被害や損害が及ばない事柄に対しては無関心になりがちなもの。
ましてや、その事柄によって自分が利益や恩恵を受けるとなれば、その良し悪しを検証する事すらせず、それを肯定、更にはその事柄によって被害や損害を受けている人達の事を、例えば「自己責任」などと言う「それぞれの相関関係」を全く無視した暴力的言論によって弾圧しさえもするものなのだ。
今回の「タバコ増税」に関して言えば、私はまさしくその立場。
すなわち、タバコが増税されようが、街中の禁煙スペースが増えようが、私には損害や被害が及ばないどころか、むしろタバコの煙に弱い私にとっては、むしろ歓迎すべき事であったりもする訳なのである。
よって、そう言う意味においては、この件に関して私は既得権益者の立場であると言えよう。
そしてその逆に、迫害を受けている愛煙家の人々にとって見れば、「タバコなんか吸ってる自分が悪いんだ」などとは思いもしないであろうし、実際、タバコだけがこれほどまでに迫害を受ける謂れも無いはずである。
そもそも、これまでさんざんタバコの販売を放置どころか推奨さえしておきながら、今になってそれを悪役扱いするのであれば、その責任は誰が取るべきなのか?
しかるに、タバコの値段が上がる事によってその売り上げが落ちても、JTは損しない仕組みになっているらしい。
本来ならば、愛煙家に支えられて経営を成り立たせてきたJTこそが、この増税案には猛反対せねばならないはずなのに・・・。
また、例えば20歳以下の女性には膝上20センチ以上のミニ・スカ着用が義務付けられたとして、私達男性にとってみればそれは嬉しい事であるかも知れないが・・・。
もしも、その様な一部の人々にのみ利益をもたらすためだけに特定の人々に強制的かつ理不尽な要求を課す事を「良し」としてしまう社会なり国家があるとするならば、遅かれ早かれ、「40歳以上の子供も作らず育てもしない役立たずな男性は死刑に処す」と言う様な事さえ言い出しかねないと、私は考える。
・・・もっとも、後者はその国家、人種、家系において、それらの繁栄に貢献しないと言う意味においては、確かに役立たずかも知れないが。(--;)
要は、こう言う事である。
それが、自分にとって得であろうとも損であろうとも、それとは全く別に、その事柄に正当性もしくは妥当性があるのか否か?と言う点こそが本来は問われるべきであり、そこを精査せずして、「守らない方が悪い」だとか「守れない方が悪い」などと考えるのは、あまりにも被支配者体質が身に沁み付き過ぎているのではないか?・・・と、私には思えてならないのだ。
汚れきった水槽で泳ぐ魚が死にそうなのは、その魚が汚れきった水槽で生きる能力が無いからいけないのか?
汚れきった水槽を放置、もしくは汚れを促進して来た者には、何の責任も無いのか?
愛煙家の方々は、汚れきった水槽・・・すなわち「タバコ増税」=「あまりにも理不尽な仕打ち」を黙って受け入れるべきなのか?
更には、嫌煙家の私達も、「自分には関係無い」し、むしろ「愛煙家が減る事は喜ばしい」からと言って、それを傍観していて良いものなのか?
社会構造の問題と、怠惰な個人の問題とは、全く別物である・・・し、もっと言えば、それらの相互作用によって、ますます生きにくい世の中になっているのが現実ではないだろうか。
風潮を真に受けてはいけない。
風潮とは、発言権なり発言メディアを牛耳っている人間が流布するプロパガンダなのである。
周りの意見に左右される前に、まずは自分で考える事だ。
それも、自分が得をするか損をするか・・・ではなく。
それは国民にとって正しい選択なのか?
それは人類にとって正しい選択なのか?
それは地球にとって正しい選択なのか?
真に断罪すべきなのは愛煙家ではなく、自己の利益や快楽のために、他者の尊厳をないがしろにする様な人間達ではないのか?
ゆえに、私はこう考える・・・。
自分のこころの内にある、「俺には関係ねえ」こそが、人々を苦しめる最大の元凶なのではないのだろうか。
・・・と。