自分の存在を世に知らしめる事、もしくは自分の価値観を世間に通用させようとする事とは、言わば現代の世の中に対する挑戦であり、勝負であると言えよう。
そして、勝負には必ず、結果的として勝ちと負けがある訳で、絶対に勝つ保証や負けない仕組がある勝負なんて勝負でも何でもないのではないか?
もしかしたら負けて大恥かくかも知れないし、あるいは多くの人からけなされるかもしれない、だけどそうなりたくないなら勝つしかない訳で、そう言った状態に身をおく事によって初めて、その人自身の本当の力が試されるのではないだろうか?
要は、結果として勝つか負けるかよりも、その不確定かつ不安定極まりない状況の下で、どれだけ自分の全力を出し切る事が出来るか?・・・と言う点こそが重要なのである。
そして、もしもそうやって全力を出し切って勝負している人が居たならば、その結果が勝ちだろうが負けだろうが、自分はどっちでも構わないと思うね。
むしろその逆に、自分より弱い奴と戦って勝ったとして、それで本当にこころの底から嬉しいと感じられるのだろうか?
・・・だとすれば、それは何とも安い快楽、何とも低い満足ではなかろうか。
必ず勝てる相手、必ず勝てる勝負、そんなのただの支配であり蹂躙じゃないの?
そんな結果が最初から解ってる勝負なんてタイクツ極まりないし、観る気なんて起きないよ。
いつも負けてる奴が、もしかしたら今日は勝つかも知れない、明日は勝つかも知れない、だから面白いんじゃない。
もっと言えば、常に勝ってる奴も、今日は負けるかも知れない、明日は負けるかも知れないと考えるからこそ、油断せず自分を鍛え続ける訳だし。
要は、勝ち負けの問題ではなく、自分が置かれた立場に甘んじるか、それを少しでも向上させようともがくかの、そのどちらの生き方を選ぶのか?って事でしょうかね。
人間は死ぬからこそ、タイム・リミットがあるからこそ、その短い一生を悔いなく生きようとする訳で、もしも死がなかったら、人生なんてどうでも良くなるよ。
だって、“何時(いつ)”でも良いし、自分が誰でも良い訳だから。
よって、「生きている事」とは、「途中経過の内に身を置く事」であるとも言えよう。
人はいつか死ぬ、みんな死ぬ、必ず死ぬ、絶対に死ぬ、間違いなく死ぬ、そして・・・途中で死ぬ。
・・・であるにも関わらず、一体誰のために?何のために生きるのか?
世間から馬鹿にされないためか?誰かに怒られたくないからか?
違うでしょ?
人が生きるのは、誰かにほめられたいからであり、自分が喜びたいからに決まってるでしょうが!!
放っといても死ぬんだぜ?
なのに、それ以外に何を恐れる事があろうか。
そもそも・・・。
有名になりたいって事は、馬鹿にされるって事。
人気者になりたいって事は、恥をかく事。
ゆえに、有名人は誰かに馬鹿にされても平気でいられる程に自分に対して自信を持つ必要があり、人気者は恥をかいて誰かに笑われてもそれが本望と思えるだけの覚悟を持つ必要がある。
ところで・・・。
人として恥ずかしくない生き方とは、一体如何なるものであろうか?
それはおそらく・・・。
正々堂々と、「途中で死ぬ事」だ。
・・・と、私は考えるものである。