昨日から考え続けていた事・・・。
芸術における美の追求とは、空手の修行に似ていないか?
そもそも、空手の目的とは、攻撃を仕掛けてくる相手を如何に効率的に(体力や攻撃力の損傷や消耗を出来るだけ避けて)倒すか?と言う点に尽きるのであるが・・・。
その様に、言わば対戦時において体力的に“ケチ”に徹するためには、その反対に、それまでのトレーニング期間に膨大な労力と時間を費やさねばならない訳である。
それゆえに、一撃必殺・・・すなわちエネルギーの消耗を少なく、しかしそれでいて重要な場面で最大限の効果を上げようとする事は、一見ケチに見えるが、実はものすごく豪華な事なのだ。
また、そうするためには、例えば拳の一突きに対し、そのエネルギーが無駄に拡散せぬ様、強靭なる集中力を行使せねばならないゆえ、元の打撃力(パワー)が少なければ意味がないし、かと言ってただただ腕をぶんぶん振り回しただけでは相手にダメージなど与えられはしないのである。
そして、これを芸術に当てはめるならば、やはり確固たる秩序による統制・・・すなわち美意識を極限まで追求すると言う事であり、それはまた、元の技量なり熱量が多い事を大前提とした上で、しかもそれを針の穴を通すかの如き集中力を持ってして具現化すると言う行為に当たるのだ。
<補足>
しかも、いくら効率的な一打なり音をその一瞬に集中して繰り出すとは言え、そこで自分より弱い相手や簡単で楽に演奏出来る楽曲を選びさえしなければ、それはやはり質の高い技量(結果)と膨大な熱量(プロセス)が最大限に注ぎ込まれた素晴らしい試合なり演奏となるはずなのである。
つまり、もっと解りやすくするために彫刻に例えるならば、小石を削って作品を作るのも、もちろんそれなりに大変ではあろうが、やはり大きな岩を、しかもそれを隅から隅まで一寸の隙もなく超精密に彫り上げたとすれば、出来上がったその作品には、それ自体の美も当然の事ながら、それが完成するに至るまでに注がれた労力と時間と言うものが、必ず宿っているのではなかろうか?・・・と。
それを私は、その作品を創り上げた作者の、美に対する“奉仕の精神”の表れであると、定義するものである。
しかるに、それは少なくとも過去にその様な体験、すなわち何かを成し遂げるために自分の労力と時間を惜しみなくつぎ込んだ事のある者にしか見えぬ、共感(価値観を共有)出来ぬものなのだなと言う事も、最近は薄々解ってきた。
その点、空手の様な対戦型の(もしくは対象物に打撃を加える)武道の場合は、勝敗と言う形の明確な結果が出るゆえ、芸術の分野とは話が少々違ってくるが・・・。
否、それにせよ、やはり高度な技の応酬であるとか、驚異的な打撃力を見せつけられた場合は、それが“芸術的”と称される事もあるゆえ、基本的な構造はそう変らないものと私には思えるのである。
要は、放出される熱量の大きさと、なおかつそれを揺るがぬ秩序(=美意識)によって制御する力の強さ・・・その双方があって初めて、空手においては強さを、そして芸術においては美を獲得出来るのではないだろうか?・・・と。
更に、それでは何故、それ(強さなり美)を追求する者とそうしない者とが存在するのかと言えば・・・。
その理由は、「そこに絶望があったかどうか?」・・・ではないかと、私は考える。
すなわち、“強さ”に対する憧れなり自らがそれに敵わぬ悔しさ、“美”に対する感動なり自らがそれを持ち得ぬ悔しさ、そしてまた、そう言った劣等感なり絶望感を味わった者でしか、それを目指そうだとか手に入れようなどとの発想にも至らぬのではないか・・・と。
ましてや、それらに敬意すらも抱かぬ者が、そう言った“強さ”や“美”に対して“奉仕の精神”など芽生えようはずなどないのである。
・・・もっとも、絶望を味わった時点で、その距離の遠さ、もしくは自分の潜在能力に対する自信の無さから、それをあきらめてしまう者も多いであろう事も想像に難くないが・・・。
何故なら、“奉仕の精神”とは、その対象物に全身全霊を注ぎ込まずして、人並以上の労力や時間を費やさずして、自分の人生の大半を捧げずして、体現出来ようはずがないものなのだから。
・・・さて、ここで音楽に話を移すと・・・。
それゆえに、つまんね~なと感じる音楽に対し、私は常に言うのだ・・・と言うか、こころの内でこうつぶやくのだ。
「この作品に魅力が無いのは、音楽に対する奉仕の精神が欠けているか、もしくは皆無だからだな。」・・・と。
生まれつき“美”が備わっているか、もしくはそう思い込んでる勘違い人間ほど、その傾向(=奉仕の精神の欠如)は顕著である。
何せ、「元から有る」んだから、それを手に入れようと努力する必要もなければ、敬意を抱く事もない訳で・・・。
しかしまあ、そう言った“井の中の蛙”をその気にさせて売り出した方が、商売的にはコストもかけずして楽に儲かるんだから、それを真似する流行信者や権威主義者(=田舎者)が後を絶たないのも致し方のない事か・・・。
“田舎者”(=井の中の者?)ってのは生まれた場所や育った場所とは全く無関係であり、例えば東京やパリに生まれ育ってたって“田舎者”(=流行信者=権威主義者)は居る訳でね。
さりとて、そんな状況の中で理想を追うだけでは絵に描いた餅になるし、かと言って現実を追認するだけでは現状を打破出来ないし・・・。
いずれにせよ、結論としては・・・。
「絶望なき所に“奉仕の精神”など芽生えず、“奉仕の精神”なき所に美や感動など生まれ得ない」
・・・と、言った所でしょうか。