Mr.エレクトの独り言 「蜘蛛の糸」に関する考察その4

Mr.エレクトの独り言

自主レーベル及び、日本人中古貴重盤ショップ、『エレクトレコード』オーナー、Mr.エレクトによる独舌日記!!

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「蜘蛛の糸」に関する考察その4

「蜘蛛の糸」に関する考察その1
「蜘蛛の糸」に関する考察その2
「蜘蛛の糸」に関する考察その3
上記の続き・・・

前回は、御釈迦様の為した行為が「慈悲のこころを試す」所業などでは到底なく、実はその全く反対に「無慈悲なこころを試す」所業であり、更に言えば「無慈悲さや利己主義に徹する事の出来る者をこそ救う」所業でさえあった・・・と言う事を述べた。

ところで、そもそも何万里もの距離を、あの拙い蜘蛛の糸を伝って昇ろうと言うのだから、ゴルゴ13並の能力や体力がなければ、とてもこれは無理であろう。

・・・となると、あれは元犯罪者の中から、優秀なテロリスト候補を選び出す作業の様にも思えたりなんかして・・・。(^^;)

そうやって考えて見ると、じゃあ何故、こんな酷い小説が小学校の道徳教育の教材などに用いられているのか?・・・と言う疑問も芽生えてくるのだが・・・。

そこで、私得意の妄想・・・否、推理能力をここで発揮するならば・・・。

そもそも芥川氏が、何故にこの様な教訓的な物語を綴るに至ったのか、その創作動機に、その答えがあるものと思われる。

(注:この時点では、芥川龍之介に関して何ら調査をせず、私が抱くイメージのみで思考を推し進めているゆえ、もし仮に事実誤認のオンパレードであったとしても、とりあえずスルー願いたく・・・。)

おそらく・・・であるが、この小説すなわちこの仕事は、芥川氏にとって自ら望むものではなかったのではなかろうか?

つまり、ある明確な意図を持ったオファーがあったか、もしくは仮にそれが本人の意思であったとしても、それまでの自己の作風に迷いが生じ、世間からの無言の要求に応えるべく、やむを得ず方針転換を図った作品なのではないか?・・・と。

要は、スランプに陥った作家が再び人気や認知を得るためにPTAが喜びそうな一般大衆向けの作品をしぶしぶ書いたのがこの作品であり、ゆえにこれは自らが書きたい題材を選ぶ言わば絵描きの様な仕事ではなく、看板屋的な仕事・・・すなわち、スポンサーからの依頼なり世間からの要求(=売れ線)に応える事を自己の表現欲求よりも優先せねばならぬ、ある種の屈辱を伴う作業だったのではないかと考えられるのだ。

よって、芥川氏のその煮え切らなさこそが、作中においても奇麗事に徹しきれぬ矛盾部分となって表れてしまい、かん陀多を初めとした地獄の罪人達に対する救いの無い残酷かつ悪趣味な仕打ちとして描かれてしまったのではないだろうか・・・とも。

そして何より、私が痛烈なる“憤り”を感じたのは、御釈迦様とやらのその冷たさ、ドライさ、慈悲の無さであり、その気まぐれ極まりない傲慢な態度なのであるが・・・。

実はそれを描く事こそが、芥川氏の本音であり本意であったのではないか?・・・と。

すなわち、落ち目の作家が自分の信念を曲げ、不本意な方向転換を強いられたその軋轢に対するせめてもの反抗心と言うか、完全に屈しきれず燻り残った作家としての意地が、自身の考えを捻じ曲げようとする傲慢なスポンサーなり自分の作品に対し振り返ってもくれぬ冷たく無慈悲な世間の人々に対する”復讐心”となり、その対象として作中に描かれた人物像こそが、あの無慈悲な御釈迦様なのではないかと推測されるのである。

読み返して頂けば解るが、安心安全安息に満ちた極楽で優雅に暮らしていながら、ほんの気まぐれ程度に救いのない地獄の罪人に儚い希望を抱かせる拙い蜘蛛の糸をたらす、御釈迦様のその行為の奥底に潜む残酷さ、それこそは自らが地獄の渦中でもがき続ける芥川氏が、日々受け続けたと感じた世間からの仕打ちそのものであったであろう事は、想像に難くない。

ゆえに芥川氏は、元より人間の傲慢さや無慈悲さを描かんとしたのではあるが、それはかん陀多と言う罪人にではなく、「自分だけが極楽に行ければ良し」=「自分さえ救われればそれで良し」とする世間の人々の無慈悲さを一身に背負ったかの如き御釈迦様の姿に重ね合わせていると言う事なのである。

そう言う意味においては、私や貴方が感じた違和感と言うか腑に落ちなさに対しても、一定の理解や納得が行くと言うものではないだろうか。

そう、この作品こそは、不遇な環境に身を置き運命にもて遊ばれ続ける芥川氏による、せめてもの儚い抵抗であり、無慈悲な世間から受けた仕打ちに対する精一杯の仕返しだったのである。

・・・だとするならば、その様な虐げられた者から発せられた怨み節に満ちた作品が小学校の道徳教育の教材に用いられていると言うこの歪な事実は、如何に学校教育がうわべだけの奇麗事を並べた虚しいものであるのかと言う事をも暴露するものとなってしまっており、その事実こそは、本作中に密かに盛った毒が見事に効果を現し、芥川氏が本懐を遂げたその結果なのだと言えなくもない。

もっとも、それが無意識によるものなのか、あるいは意図的に為されたものであったかどうかまでは、今となっては知る由もないが・・・。

(つづく)
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