Mr.エレクトの独り言 「蜘蛛の糸」に関する考察その5(完結編)

Mr.エレクトの独り言

自主レーベル及び、日本人中古貴重盤ショップ、『エレクトレコード』オーナー、Mr.エレクトによる独舌日記!!

「蜘蛛の糸」に関する考察その5(完結編)

「蜘蛛の糸」に関する考察その1
「蜘蛛の糸」に関する考察その2
「蜘蛛の糸」に関する考察その3
「蜘蛛の糸」に関する考察その4
上記の続き・・・

さて、蜘蛛を殺せなくなる程までに、私の人生にトラウマを与えた、この小説であるが・・・。

私の憤りが向くその矛先は、地獄に堕とされてもなお改心せず自分だけが助かろうとしてせっかく得たチャンスを逃す羽目となった、かん陀多に対してではない・・・と言う事は、もはや説明するまでもないだろう。

やはり、私にはこの御釈迦様のやり口が、どうにも納得行かないのである。

・・・と言うか、それ以前に、あくまでも迷信もしくはフィクションゆえの設定であるとは言え、死後に人間を極楽と地獄に振り分けると言う、その理不尽さに対しても・・・だ。

そもそも、こんなわずかな人間の一生で、しかも生まれた家庭や地域や時代はその人自身が望んだものではなく、その子がやさしい人間に育つか野蛮な人間に育つかと言う点は、自らが選ぶ事の出来ない生育環境からも、大きくその影響を受けてしまうものなのである。

・・・にも関わらず、それぞれ異なる環境に置かれた多種多様な人達が、まるで「それは自己責任である」とでも言わんばかりに、その短い一生のうちに、自らが自らを「極楽に入るに相応しい人間」に育て上げなければならないのだ。

・・・しかし、中には本当に劣悪な環境に生れ落ちた者もおり、そう言う人間にとってみれば、この競争社会で生き抜く事とは、まさしく地獄の底に居て「蜘蛛の糸」をたらされたに等しい状態な訳である。

そんな状況の下にあって、決して自らが進んで堕落を望んだ訳ではないにも関わらず、自分自身を善なる方向に導く事が叶わなかった人間を、永遠に続く地獄に堕とすとは、こんな不公平にして理不尽な仕打ちが他にあるだろうか?・・・と。

・・・もっとも、如何なる環境の中にあっても、自分を変える事の出来る人間は居るであろうし、そうすべきである・・・と言う事も重々承知の上であるが・・・。

しかるに、「それならそうと、事前にそのルールをちゃんと説明しろよ!!」・・・と、私は考える。

もちろん、生きているうちは誰しも自分を救う事で精一杯かも知れないゆえ、「他人に甘えるな」と言う事で片付けられても仕方がないが、それならば、せめて御釈迦様・・・すなわち極楽に入る事の出来た者は、それをしろよ!!・・・と。

もし仮に地獄に堕とす・・・すなわち罰を与える事で、ある一場面で人間が行動様式を変えた所で、それを改心と呼べるのか?

知る者は、知らぬ者に真理を“教える”べきではないのか?

未だその途中なり渦中に居る者であるならばともかく・・・。

自分だけが救われれば、それで良いのか?

自分だけが真理を知り、極楽に身を置く事が出来ればそれで良しとするのか?

運悪くまともな教育を受ける環境を与えられなかった者を見下すのみで、その様な不遇な人達を教育や啓蒙によって引き上げる事もせず、知識や情報を独占する事によって自らのその地位を保つに過ぎない者の、どこが聖人と呼ぶに相応しいと言うのか?

まともな親や指導者であれば、子供や国民が教育を受ける機会を増やそうとするのが当然であろう。

そしてその逆に、自身の権力や地位を保持するために子供や国民を無知で愚かな状態に置いておきたい者は、教育を受ける機会さえも独占しようとするのである。

ゆえに私は、一見、かん陀多の醜く愚かな利己的心性を描いているかの様に思われがちなこの作品であるが、実の所はそうではなく、極楽に居る御釈迦様・・・すなわち独占する事によってのみその権力や地位を獲得し得た特権階級に対する批判精神が、その奥底に隠されているのではないかと思えてならないのだ。

特に、冒頭と文末に描かれた御釈迦様のその気まぐれかつ無慈悲なドライ過ぎる態度に、それが強く示されている様に思える。

ん?・・・そう考えると、これはもしかして芥川氏の失恋経験、成就せず叶わなかった恋心、そしてその対象であった自分に冷たく接する女性への未だ捨てきれぬ執着心が、その創作動機になっているのかも知れないな・・・などとも思えてきたりなんかして。

小説家の創作動機なんて、しょせんそんな所でしょ。(^^)

・・・などと、あまり乱暴な妄想ばかり述べていると、そのうち誰かに怒られそうなので、この話題はこの辺でお開きと言う事に・・・。(^^;)

(おしまい)