事故責任はすべて国民に背負わせ、自己責任論を国民に押し付ける、それが現代の身分制度(コネ社会)における特権階級のやり口。
ところで、そもそも“価値”なんてものは、個体それぞれに認識が異なってしかるべきであり、もちろんそれが勘違いであったり思い違いであったりはするものの、寿命等と言った普遍的な事柄を除けば、それがすべて共通する訳ではない。
・・・にも関わらず、それをさも共通認識であるかの如く流布し、刷り込もうとするのが、一神教ファシズム詐欺支配の正体なのである。
そしてまた、詐欺行為の本質を一言で言い表すならば、「大した価値のないものを、さも素晴らしい価値がある様に見せる」事に他ならない。
結論から先に述べるならば、「個人の努力不足」をその原因とする「自己責任論詐欺」を行なう者自身が、そもそも「個人の努力」などと言うものに価値など見出していない・・・と言う事。
すなわち、詐欺師が「価値のないもの」をさも「価値があるもの」の様に見せかける事によって利益を得るのと同様に、「無価値な努力=無駄な労力」を私達に強いる事こそが、特権階級の者達の利益に結びつくって寸法なのだ。
つまり、特権階級にとってみれば、庶民がいくら努力を重ねた所で、現体制(=自分達の地位や権益)を脅かす程の脅威を感じるどころか、むしろ搾取する者にとってみれば、それ(=無駄な努力)以上に美味しい収穫物はないのである。
よって彼らは、構造上の欠陥(=身分制度)には一切言及せず、しかも自分達自身は努力なんぞと言うものにこれっぽちの価値すらも見出していない癖に、生まれつき備わった個体差や運命を乗り越える事の出来ない者の不幸や不遇を「努力不足」の一言で片付けるのだ。
しかるに、そこで問題視されているのは「成果が上がらぬ事」そのものに過ぎず、もし本当に「努力の価値」なんぞを認めているのであれば、「成果が上がらなくてもその努力の量や度合いを評価すべき」であろうし、「努力もせずに現在の地位や権益を獲得している者」に対しては徹底的に非難すべきではないのか?
要するに、自己責任論者は「努力不足」がどうのこうのと言いはするが、その実、努力の量や度合いを推し量る能力もなければ、それ以前にそんなものを評価するつもりなどさらさらない、すなわち「努力の価値」なんぞ元から認めてなどいない・・・と言う事なのである。
・・・もっとも、だからと言って私は、実際に成果が上がらない理由が「本人の努力不足」に過ぎない怠惰な人間を弁護・擁護するつもりも毛頭ない。
重要なのは、「構造上の欠陥(=身分制度)には一切言及せず、問題の元凶や責任を一方(しかも不利な立場に居る者)にのみ押し付ける事」・・・なのである。
それにしても、それならば最初から正直にこう言ってもらいたいものだ。
「成果の出ない無駄な努力なんぞに価値はない」
・・・と。
しかし、当たりくじが出ないと解っている宝くじなんぞ誰も買わないのと同様に・・・。
それがどれほど儚い可能性であろうとも、「自分も努力すればもしかしたら・・・」と思わせなければ、ゲーム(=搾取のシステム)は成立しないのだ。
かくて、個人の私権欲求に過ぎない欲望を美化した「夢」なんぞと言う言葉を弄し、今日も明日も人々は「無駄な努力」・・・すなわち特権階級に上納金を献上する行為に明け暮れるのである。
・・・とは言え、冒頭で述べた通り、そもそも“価値”なんてものは、個体それぞれに認識が異なってしかるべきであり、もちろんそれが勘違いであったり思い違いであったりはするものの、寿命等と言った普遍的な事柄を除けば、それがすべて共通する訳ではない。
・・・のであるからして・・・。
現代の身分制度における擬似(=詐欺)的階級闘争に労力(=生命であり財産)を吸い上げられるためにではなく、あくまでも、生まれつき備わった個体差や運命を乗り越えるために自身を鍛えたり学ぶ努力をすると言うのであれば、そこに価値を見出す事は決して悪い事ではないのではないか?
・・・と、私は考える次第。
いずれにせよ、「価値の有る無し」は、誰かに押し付けられる種類のものではなく、自分自身で決定すべきである・・・と言うのが、今回の主題であろうか。
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