Mr.エレクトの独り言 「魂の牢獄」その2

Mr.エレクトの独り言

自主レーベル及び、日本人中古貴重盤ショップ、『エレクトレコード』オーナー、Mr.エレクトによる独舌日記!!

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「魂の牢獄」その2

■「魂の牢獄」その1

上記のつづき・・・。

子供を自分の言いなりにしたい(=支配下に置きたい)親は、時としてこの様な物言いをする。

「人間は一人では生きられないのよ」・・・と。

そして、その後には必ずこう続く。

「だから、私(親)の言う事を素直に聞きなさい」・・・と。

つまり、それを翻訳するならば・・・。

「貴方は一人では無力なんだから、私に服従(依存)しなければ生きていけないのよ」・・・となる。

確かに、それらはどれも間違いではない・・・否、それどころか、むしろ正しいとさえ言える。

しかるに、そこまで言わなくとも子供と言うのはまだ生活力など持ち得ておらず、親なり親代わりの保護者に生殺与奪件を握られている状態な訳であるからして、本来はそれ程までに世の中に対する恐怖(=無力感)を植え付けなくとも良いはずなのだ。

また、そもそも「人間は一人では生きられない」事もまた真理であり、殆どの人は食料を自身で生産してなどいないし、仮に自給自足の生活をしていたとしても、醤油なり石油なり農機具の製造は他の誰かに依存しているのが現実であろう。

要するに、ここが最も重要なのであるが、「人間は一人で生きられない」という事は、私が誰かの助けを借りて生きていると同様に、その誰かも私なりまた他の誰かの力を借りて生きていると言う事。

すなわち、相互依存(=持ちつ持たれつ)の関係性がそこにはあり、病気や障害を抱えている人、もしくは自活能力の無い子供時代であればともかく、その後も一生親から面倒を見続けてもらうかもしくは誰かに養ってもらえる状況が確保される事など極めて稀なのである。

更に言うなら、もし仮にしばらくはその様な状態を保てたとしても、その親なり保護者とて、いつかは死ぬのだ。

・・・となると、まともな親や、その子の将来を本気で案ずる者であれば、無力感を植え付ける事で子供を恐怖支配するのではなく、「人間は一人では生きられないのだから、貴方も誰か他の人の役に立つ能力を身に付けなさい」だとか、「貴方も誰かの力を借りて生きているのだから、困っている人が居たら出来る範囲で助けてあげなさい」だとかと言った、その子を奮起させる様な自信なり勇気を与える教育をしなければ、ただただ依存心(無力感)のみに支配された大人を、また一人世の中に送り出す結果にしかならないのである。

そう・・・本来は子供の「自信=やる気=原動力」をたっぷり充填して世の中に送り出す事で、その親自身も自分の親や世の中や他人から受けた恩恵を社会に還元していかなければならないと言うのに、この様な「ただ子供を自分の思い通りにコントロール(支配)したいだけの」親は、自信を無くし無力感や依存心でこころをいっぱいにした子供を、遊び飽きた玩具を手放すかの如く手元から放り出すのだ。

しかも、そうしておきながら、自分の子供が何かしらの挫折を味わい助けを求めた時には、「貴方はもう大人なんだからそのぐらいの事は自分で何とかしなさい(解決しなさい)」と、冷たく突き放すのである。(そのくせ世間では持ちつ持たれつの関係性を無視した「自己責任論詐欺」を正当化する風潮が蔓延しているのだから、これがふざけた話でなくてなんであろうか・・・。)

もっとも、その様な親は、自身も世間なり誰かからの抑圧に耐え続けているか、自分の本心を強引に捻じ曲げて誰かしらに服従している場合が多いから、その反動なり復讐心を、この世で唯一自分の言いなりになる弱い立場である子供に対してぶつけるのであろう。

要は、その子供はその親自身が自らの力で解消する事の出来ないストレス感情なりマイナス感情の掃き溜めにされていると言う事なのだ。

・・・とは言え、すべての親がそうなる訳ではないのだからして、まあ良く言えば向上心が強く頑張り過ぎる・・・悪く言えば見栄っ張りで意地っ張りな人間が、自身の私権欲求なり肥大した虚栄心を満たしきれない時に、こう言った状況(負の連鎖)が生まれるのだと考えられる。

よって、そう言う意味においては、その親自身も苦しく不幸な状態なのであると言えなくもないが、そんなに余裕がないなら子供なんか作るなよと言いたいし、もし仮に間違って出来ちゃったとしても・・・。

そんな手前の鬱屈した感情を、自分より弱い立場の、しかも親(手前)の言いなりになるしかない子供にまでぶつけるんじゃねえよ!!

・・・と、私は言いたい。

かくして、そう言った依存心と無力感を植え付けられ、「自信=やる気=原動力」を持たぬまま(・・・と言うか下手をすればマイナスの状態で)社会に放たれた者が目にする光景とは・・・。

おそらくは、廻りに居る人間のすべてが、(その根拠までは伺いしれないものの)まるで自信満々で生きているかの様に見える事だろう。

だが実際には(・・・まあ怠惰でだらしない人間も居るには居るが)、数学は得意だけど料理なんか全然出来ないだとか、足は速いけど頭は悪いだとか、金持ちの息子だけど性格悪いだとか(←筆者の個人的な妬みか?)と言った、皆それぞれ得手不得手を抱えた不完全な存在に過ぎず、しかも持ちつ持たれつの社会においてはそれが当然であり、しかし唯一異なる部分があるとすれば、自信・・・とさえも呼ぶレベルのものではないが少なくとも強い依存心と深い無力感を背負わされていないと言う事くらいであろうか。

・・・否、要は、やはりその“差”こそがすべてなのだ。

更に、その様な「自信=やる気=原動力」を持たぬ者が、仲間外れにされないため見下されないため屈辱感を味合わない様にするために、見よう見まねで廻りの人間の精神状態に自身を重ね合わせようとした時、そこに一体どれだけの労力を必要とするのかと言う事を想像してみて欲しい。

ただし、もちろん手足(=潜在能力)すら無いと言う程の重い障害がある訳ではない。

・・・がしかし、かつての私(←今も?)を含めた彼ら(「自信=やる気=原動力」を持たぬ者)にとってみれば、それはまるで手足に錘や鎖を架せられたままで、幸せな人間の振り(擬態)をする行為に等しいのである。

では、そんな育て方を間違った・・・否、子供に注ぐ愛情すら持ち合わせなかった(=子供を育てる余裕などなかった)親の失敗作(=犠牲者)である彼らが、その「魂の牢獄」から抜け出す事など果たして出来るのであろうか?・・・と言う話になるのだが。

・・・と言うか、親であるとか血の繋がりだとかは、実はそんなに重要な問題ではないのである。

(その3につづく)
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