Mr.エレクトの独り言 「魂の牢獄」その3

Mr.エレクトの独り言

自主レーベル及び、日本人中古貴重盤ショップ、『エレクトレコード』オーナー、Mr.エレクトによる独舌日記!!

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「魂の牢獄」その3

■「魂の牢獄」その2

上記のつづき・・・。

前回述べた、親なり親代わりの保護者が子供を自分の言いなりにしたい(=支配下に置きたい)がために、子供に恐怖(=無力感)を植え付ける手法であるが、これはそのまま宗教等にも当てはまる。

・・・つまり、「人間は無力な存在なのだ(と思い込ませる)」→「だから神に祈りなさい(縋りなさい)」→「教団(教祖様)にお布施しなさい」・・・となり、要は「人間を自立させない」と言う意味においてその手口は共通していると言う事。

また、親子間においてその様な仕打ち(恐怖支配)を受け続けた(受け過ぎた)子供には、何が欠けている(もしくは身に付いてない)かと言えば・・・。

それは、「自己肯定感」に他ならない。

それが身に付いてない人間にとって「生きる」と言う事は、言わばぬかるんだ地面に立ったままで歩くか、もしくはジャンプしようとする事と同義なのだ。

そしてその反対に、「自己肯定感」を身に付けた人間とは、既に固い地面の上に立った上で何かを為す事が出来る者であると言う事。

よって、上記の二者間においては、社会に出て自身の能力なり地位なりを向上させようとした際に必要な助走期間の度合い(=スタート・ラインの位置)が異なる事はもちろん、もし仮に目標を達成出来ず、つまずき挫折した際にも、前者はマイナスにマイナスを重ねる泥沼の地獄だが、後者は元々居た地面に着地する(=スタート地点に戻る)だけ・・・と言った、極めて大きな違いがあるのだ。

更には、幼少期の子供にとって“親なり親代わりの保護者”と言うものは、常に近くに居て、しかも生殺与奪権を握っている存在であるからして、その責任も確かに大きいのであるが、言い方を変えるならば、彼らは子供に対し“無根拠な賞賛”を与える事の出来る唯一の存在と言う事でもある。

・・・何せ、親バカと言う言葉が示す通り、幼児が笑っただけで誉め、這い這いしたと言うだけでそれを褒め称え、立って歩けば大騒ぎする始末なのであるからして・・・。

そもそも、一旦社会に出てしまえば自分の事を無根拠に誉めてくれる人間になどとはなかなか出会えないゆえ、それが出来るのは血を分けた肉親だけなのだ。

・・・がしかし、根拠無き賞賛によって自己肯定感が身に付くのと同様、血が繋がっているかどうかと言う事さえも、実は思い込みに過ぎないのではないかと私は考える。

(もっとも、母親と子供の関係においては、そう言った理屈を越えた精神レベルの結びつきがあるのかも知れないが・・・。)

たいていの父親は、それが本当に自分の血を分けた子供かどうかなんて事、言葉や理屈でしか認識出来ていないのではなかろうか。

ゆえに、それと同様、“愛情”なんてものもまた、人間の思い込みの産物にしか過ぎず、いくら親が口を酸っぱくして「これは愛情だ」と強弁しようが、子供にそれが伝わらないか、もしくは子供自身がそれを感じられなければ無意味なのである。

・・・と言う事は、例えば自分に子供が生まれて初めて、「あれは(親の)愛情だったんだ」と思える(or思い込める)事も良く聞くエピソードであるゆえ、もし仮にそれが愛情に基づくものでもなんでもなかったとしても、受信者が勝手に「それを愛情だと感じさえすれば良い」と言う話にもなるのだ。

・・・だからこそ、「親はなくとも子は育つ」・・・とはちょっと意味が違うが、親なんて居ようが居まいが・・・否、もちろん居るに越した事はないが、価値観を共有し合える恋人や友人、あるいは親どころか人間すらそばに居なくとも、動物を飼うなり文学や音楽や絵画に触れる事によってその精神が共鳴なり共感する事によって自身の“自己肯定感”を育む事も可能なはずであり、現に私はその様な人物を何人か見知っている。

・・・と、ここで、勘の良い方は気づいたかも知れないが、「じゃあその“自己肯定感”ってやつに確固たる根拠は無いの?」って話であるが・・・。

おっしゃる通り、“自己肯定感”とは“思い込み”に過ぎず、しかしまたそれこそが“自信”なるものの正体に過ぎないのである。

何せ、まともな親であれば、「子供が健康なだけで満足」どころか、「子供が生まれて来てくれた事だけで幸せを感じる」程なのであるからして・・・。

だから、もし仮に親に愛されて育ったと思い込む事が出来たがゆえに自己肯定感を身に付ける事の出来た人間は、社会に出てからも“それ以上多くを望まない(=挫折する可能性を芽生えさせない)”で居られさえすれば、そして死ぬまでそれ・・・すなわち「自身の自己肯定感が無根拠である事」に気づかずに居られれば、生きてるうちにその洗脳(←悪く言えば)が解けなければ、死ぬまで幸せを感じていられると言う事なのだ。(←それは宗教も同じデスよね。)

・・・要は、一見幸福そうに見える彼らとて、実は「魂の牢獄」の住人に過ぎぬ・・・と言う事になるであろうか。

・・・とは言え、運悪く自己肯定感を身に付けるチャンスを得られなかったために、常に他人からの評価のみならず自身の胸に巣食う無力感に苛まれている(もしくは立ち向かわなければならない)人間からすれば、スタート地点がマイナスではないと言う事だけでも充分に羨ましい状態・・・と言う事にもなるのであるが・・・。

そう考えると、本当に正しい・・・と言うと語弊があるが、まっとうな子供の育て方と言うものがあるとするならば、それは幼児期にはとにかく無根拠に誉め、しかしある時期(訂正:1歳半~3歳くらいまで?←各自でお調べ下サイ)を過ぎたら“根拠ある誉め方”をする・・・すなわち「きちんとお片づけ出来た」程度の事に始まり、更には「絵が上手」だとか「電車が好きね~」だとかと言ったその子も長所なり特性なり将来性を的確に指摘し、それを大いに伸ばしてやる事・・・となるであろうか。

そしてまた同時に、誉めたり甘やかしたりするだけではなく、幼児期には(言葉など通じないゆえ)理屈抜きで叩いて躾け、ある時期(訂正:1歳半~3歳くらいまで?←各自でお調べ下サイ)を過ぎたら理屈によって諭す・・・と言う事も併せて必要であろう。

それにしても、いや~・・・子育てって本当に大変デスよね。(--;)

ちゅうか、言い換えるならば、「人間を生み育てる」って事は、それだけ重要かつ責任の伴う行為であり、ヒトが人生(時間と労力)を賭けて取り組むべき一大事業だって事かな。

(その4につづく)
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