今思えば、私が911の真相に疑いを持つきっかけのひとつとなったのは、故アーロン・ルッソ監督のインタビュー動画だった訳であるが、そこで興味深い事柄が語られていた。
ルッソ監督曰く、「ウーマン・リブに資金を出したのはロックフェラー財団及びCアイA(欧州の銀行家の代理人と私有組織)であった・・・・」・・・と。
一見、女性の地位向上だとか差別意識撤廃に役立った様に思えるこの運動であるが、実際の目的はと言えば、夫婦二人に共働きさせる事及び双方から税金を取る、そして何より子供を親から引き離し、その教育を学校に依存させるためであったとの事。
要するにこれは、そうする事によって各家庭(=独立独裁国家)における個別の価値観による教育を許さず、資本家(=銀行家)のみに都合の良い考え(=従順な家畜となる事)を刷り込む事が出来ると言う目論みであるらしいのだ。
また、これは私の考えであるが、それまでは良き伴侶を見つけ子供を産み育てる事こそが仕事であり大きな役割であったはずの女性=母親が、自身も社会に進出する事によって競争に参加させられ、そのストレスを自身の中で留めておけず、自らの子供にまで競争を強いる結果となっているのではないか?・・・と。
事実、それなりの上流家庭ならまだしも、一般庶民の母親ですらも、ママ友だなんだと言った集団内における自身らの比較や競争心もさる事ながら、子供にも英才教育だ出世だ何だと、その成長を願うと言うよりは自身の社会的地位向上(もしくは復讐)の道具としてしか子供を見ていないのではないかと思える様な傾向が顕著になってきてはいないだろうか?
・・・と言うか、そもそも母親の役割とは何であろうかと考えるに、それは・・・。
世の中の人間が全て敵だとしても、母親だけは勝ち負けに関わらずいつでも子供の味方であり続け、何ら見返りなど求めず、ただただ子供の健やかな成長だけを望み、社会における地位や名誉や能力や身分や比較や競争とは全く無関係に、子供の生命が危ぶまれれば身代わりに自身の生命さえも投げ打ち、もし仮に子供が人を殺したとしても自分だけは子供を庇い続け、子供に自信・・・すなわち“自己肯定感”を与えるべき存在なのではないのか?
もちろん、それは根拠なき賞賛に過ぎないかも知れない・・・がしかし、そう言った根拠なき賞賛を与える事が出来るのは親・・・しかも母親だけなのである。
・・・とは言え、それだけではもちろん片手落ちであり、単に自信過剰な勘違いバカを世に送り出す結果となるであろう。
だからこそもう一人、子供には父親と言う存在が必要不可欠なのである。
母が味方なら、こちらは仮想敵とでも言うのだろうか、父親は、子供が乗り越えるべき壁であり目標であり尊敬の対象として存在すべきなのだ。
よって、父親の役割も楽ではない。
あまりにもその壁が高過ぎれば子供は自信を失うし、あまりにもその壁が低過ぎれば子供は何を基準にして自身を成長させて行けば良いのか、その道標を見失う事となるのである。
ゆえに、先にも述べた「女性の地位向上」=「女性の社会進出」と言うものが、相対的に父親の立場や威厳を損ねる結果となり、時には夫婦不仲や離婚=家庭崩壊をももたらし、それより何より子供の(家畜としてではなく生き物としての)まっとうな成長を阻む結果となっているのが現実なのだ。
要は、それこそが家庭を破壊する要因のひとつであり、小さな共同体の破壊=各家庭毎の独自の価値観の破壊であり国家の破壊、ひいては人間性の破壊に繋がる元凶なのである。
ましてや、それが意図して行なわれているとなれば・・・。
そもそも、貴方は自分の子供を、何のために生み、そして育てているのか?
単なる労働力(=家畜)として資本家に差し出すためか?
それとも、自身の地位や虚栄心や満たすための道具としてなのか?
そんな母親なら、居ない方がまだましではないか?
・・・もしかしたら、血など繋がってなくとも、自身を肯定してくれる何かに出会う可能性もゼロではないのだから・・・。
子供はあまりにも無力である。
何故なら、子供は親を選べないのだから。
・・・もっとも、その母親自身が、自分の親もしくはこの競争社会から、これまで一度も“人間扱い”されてこなかったのであろうから、そんな人間に、“人間を生み育てる”事など出来るはずなどないのであるが・・・。
母不在。
父不在。
人間性不在の、競争、教育、“狂”生社会。
そんな世の中において、もしも“真の勝利”などと言うものを示す基準があるとするならば、それは・・・。
「如何に人間性を失わずに生きたか?」・・・と言う観点に尽きるであろう。
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