Mr.エレクトの独り言 2013年度版「現代音楽文化論」

Mr.エレクトの独り言

自主レーベル及び、日本人中古貴重盤ショップ、『エレクトレコード』オーナー、Mr.エレクトによる独舌日記!!

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2013年度版「現代音楽文化論」

■良書紹介①土田世紀「編集王」
上記のつづき的な・・・

さて、それでは文化が繁栄している状態とは如何なるものかと考えるならば、それは「百花繚乱」に尽きるであろう。

ただしそれは、“表現者の数”ではなく、“種類の多さ”と言う意味においてであり、それこそがその時代や地域の文化度を量るバロメータなのだ。

そう考えるに、誰もがステージに立ちライヴをする事が出来、誰もがCDなりインター・ネット上なりで作品を発表する事が出来る現在の状況は、一見、音楽文化の繁栄の結果と見て取れなくもないが、実際には、「その能力や資格の無い人までもが表現者としての立ち位置を確保出来ているだけ」に過ぎないのである。

要するにこれは、リスナーにとっての音楽の楽しみ方が一つ増えたに過ぎない状態・・・すなわち、それまでは音楽を聴く、CDを買う、特定のバンドを応援したりスタッフになる、写真を撮影したりミニコミ等(現在ではブログやウェブ・サイト)を作り多くの人に紹介する・・・その他が音楽に接し関わる方法であったのが、そこに更に、ライヴハウスに出演し料金表示をする事でプロと同様のスタイルでライヴ活動を行なう(友達に観せる)と言う行為が加わったに過ぎない・・・と言う事。

更に言えば、本来はリスナーの立場に甘んじなければならなかった人達が容易にステージに立ち続ける事が出来る様になったため、「潔くあきらめる」必要がなくなり、もしかしたら音楽を正しく批評出来る良きリスナーとなるはずだった人、もしくはライヴ企画者なりスタッフなりカメラマンとしてその能力を発揮したかも知れない人、ジャケット・デザインやイラストレーターとしての才能を開花させたかも知れない人、あるいは音楽活動を続けるためにやむを得ずやってる労働などではなくもっと別の仕事で成功を得られたかも知れない人もまた、それぞれがその可能性を閉ざされてしまっていると言う事も考えられなくはないのである。

そう言った意味においても、「自然淘汰が無い事」がもたらす不幸とは、とても一言では言い尽くせないのだ。

そもそも、「文化の繁栄=音楽なり演目の種類が増える事」が起きないのであれば、「ステージに立てる人間の数」は制限されていた方が、「切磋琢磨し合い淘汰された後の良質な結果」しか人前に姿を晒す事が出来なくなる訳なのだからして、となれば自ずと、ある程度どの店に行ってもどのCDを買っても、リスナーが「良質な結果に出会う機会が増える事」にも繋がるのである。

しかるに現在の状況は、「悪貨は良貨を駆逐する」の言葉通り、良質な表現者なり作品を人目に触れにくい様に隅に追いやり、リスナーもまたそう言った出会いから遠ざけられてしまう結果をもたらす元凶となってしまっているのだ。

・・・とは言えもちろん、過去の歴史において、必ずしもその「淘汰のされ方」が絶対的に正しかったとは言い難い。

例えば、宣伝力(=資金力やコネ)と言った音楽表現自体とは無関係な要素の度合いが権威を振るって来たと言う現実も見逃せないし、安易な人気取りが幅を利かせる事による劣化の悪循環、コストを削る事による品質の低下、すなわち“利益至上主義”により、「経済が文化を抑圧・迫害する状況」があったと言う事もまた事実。

しかし、それでもなお、やはり実力のある者が認められる可能性が高いのは当然の事ながら、時流に合わず人気が得られ難いマイナーなものも(真っ当な人生を棒に振る)覚悟さえあれば音楽活動を続ける事が出来、そしてまたそれを成立させる事も不可能ではなかった。

それを解りやすく言うなれば、前者(実力者)は限られた種類の中での本質的な競争に打ち勝って来た者(=品質の維持と向上に貢献)、後者は大手スーパーでは売っていない商品を細々と売り続けている個人商店(=文化の繁栄すなわち品種数の確保と拡充に貢献)みたいなものだとでも言えようか。

ところが、現在の状況はと言えば、宣伝力(資金力やコネ)が無くとも良い代りに、(品質の維持・向上に貢献する)実力が無くとも、そして(文化の繁栄すなわち品種数の確保・拡充に貢献する)覚悟すら無くとも、いくばくかの出演料なり活動資金さえ捻出出来れば、表現者と言う立場を確保出来てしまう訳なのである。

要は、(その職種を蔑視する等の悪意は無いが・・・)単純労働で稼げる程度の金をつぎ込みさえすれば、人気や実力など無くとも、品質の向上や品種の拡充に貢献せずとも、誰もが気軽に文化の体現者なり発信者になれると言う事。

・・・とは言ったものの、学校の教室内を見渡せば、昔は「父親が工場勤めの子」も居れば「八百屋の子」や「薬屋の子」等、自営業(=独自の価値観で仕事をしたり家庭を作る)の子も多かった訳であるが、今は大型店や大手チェーン店の台頭により自営業者は減る一方で、殆どは「雇われ人の子」なのであるからして、その様な価値観が流行の主流を形成している状況の中から独自の発想や新しいアイデアが次から次へと沸いてくるはずなど有り得やしないのだ。

ましてや、ここ最近顕著に見られる、「多数派に所属する事」そして「少数派を疎外する事」によって優越感や安心を得ると行った風潮(同調圧力)の支配・管理下にあっては、「成長=独立の度合い」などではなく、「成長=従属の度合い」なのであるからして、「独自な性質や価値観を育む事」なんぞ忌むべきものでしかないのであろう。

また、言い方を変えるならば、快楽を再生産するプレイヤー(消費者体質的音楽家)ばかりが増えて、独自もしくは新たな快楽を開発するクリエイター(生産者体質的音楽家)が芽を出し難い状況にあると言う事であろうか・・・。

もし仮に、これは良く言われる事だが・・・音楽のジャンルや表現形態は出尽くして、もうその種類は増えない・・・と言うのであれば、品種毎に自然淘汰が行なわれる事によってそのクオリティが保たれて行く方が、まだまだ健全であろう。

・・・がしかし、良くも悪くも淘汰される事が無い時代、もしくは、あるとしても「単純労働が出来る体力と精神力」程度しかクリアすべき基準の無い現代においては、その様な切磋琢磨(健全な競争)すらも行なわれないとなれば・・・。

宣伝力(=資金力やコネ)のある者、すなわち音楽表現自体とは無関係な要素の度合いがますます権威を振るう様になる事は必然であり・・・。

市場を独占するためには、現在売り場に並んでいる商品とは異なる新たな価値観に基づく商品の台頭を妨害し続ける必要もあるゆえ・・・。

音楽のジャンルや表現形態が頭打ちになっている訳ではなく、実際には大型店や大手チェーン店が売れるもの(=大企業が売りたいもの)しか棚に並べない・・・と言うだけの話であり・・・。

音楽のみならず、“経済の支配”による“文化の発展への迫害”は留まる事を知らず・・・。

文化の衰退や停滞は、人々から人生における潤いを失わせ、感動するきっかけを奪い、自ら考える事を忘れさせ・・・。

やがて人々は、集団に従属する事(=独自な性質や価値観を育まない事=種類を増やさない事)のみならず所属する階級を固定される事に安心や喜びを感じる様にさえなるのであろう。

悲しいかな、権威や権利のみ振りかざす実力の無い支配者は、その地位を脅かされる事を恐れるあまり、多様な価値観を認めない。

よって、その様な弱者に率いられた種族なり集団は、予期せぬ事態に対応出来ず、いずれ滅びる宿命であろう。

そして、「多様な価値観による独自な進化=種類が増える事」こそが文化の発展であり、その種族なり集団の繁栄に繋がると言う点を鑑みるならば・・・。

文化の衰退や停滞とは、人間性の放棄であり、亡国の序章に他ならないと、私は考える。

ゆえに、もしもその時代なり地域の文化度が高いとするならば、その定義とは「異なる価値観を認め、互いに尊重し合って共存している状態である事」だと言えようか。

最後に、「良い音楽とは何か?」と問われたならば、それは、集団や特定の階級にヒトを隷従させるためのものなどではなく、独立を志す人間を勇気づけ成長させるものである・・・と、私は答えるであろう。
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