連続ブログ小説「Mr.エレクトの独り言」
最終話「今日が俺の死ぬ日」
こう言う事ってないだろうか?
朝、出かける時、「今日は何か良い事ありそうだ」と言う気持ちになる事・・・。
もちろん、そんなの、その時一瞬の気の迷いで、出かけた先ではすっかり忘れているんだけど、そんな日に、実際に何か良い事があった時は、「やっぱそうか。今日は何か良い事あると思ってたんだよな~」と、良い事が起こった事プラス、自分の予想が当たったと言う、ダブル・ハピネスを得られるって訳だ。逆に、何にも良い事が起こらなくても、朝の予想なんて、どうせすっかり忘れているから、別にどうってこと無いしね。それに、良く無い事が起こったら、それはそれで、すでにそれ自体がショックゆえ、これまた予想がどうこうとかの問題ぢゃあなくなる。
また、反対に、「もしかしたら、今日が俺の死ぬ日では?」などと、不吉な予感が脳裏をかすめる事って無いだろうか?
私には、年に数回ある。もちろん、そこまでリアルに思い浮かべる訳では無いが、「ああ、きっと、こんな普通の日に、あっけなく死んだりするんだろうな」程度に、言わば、故郷で見た夕焼け空に思いを馳せるが如く、未知の出来事である“死”に対し、あこがれと恐怖がない交ぜになった心理にかられているだけの話なのだが。
そして、これまた、30分後にはすっかり忘れているのも事実。
また、その予想がことごとく外れていると言うのも、私が今もこうして生きている事で証明されている。
しかし、おそらく、“死”とは、何の前触れも無く訪れるものなのであろう。
「えっ!?今日なの!?ウソ!?マジ!?」
きっとビックリするだろう。
そして、その逆に、出かけた直後の不吉な予感が的中し、「今日が俺の死ぬ日では?」との予想が当たったとしよう。
その時、私は思うのだろうか?
「わ~い、やっぱ予想が当たった!!」
・・・と。
すると、予想が当たった喜びで、死ぬ事に対する悲しみや嘆きも、若干薄れるかも知れない。
ならば、毎日、「今日が俺の死ぬ日」であると思っておけば、死のショックも、いくぶん和らぐのでは?
要するに、常に悪い方へ悪い方へ思考を偏らせる人間は、未来に受けるかも知れぬショックを少しでも和らげるため、あらかぢめ手を打っているのかも知れないな。
この世にあるものはすべて、いつか必ず、あるいは、ある日突然に消え失せる。
私も必ず死ぬ様に、君も必ず死ぬのだ。悲しいぢゃないか、君が死ぬなんて。そのショックに、私は耐えられるだろうか?
だから、私はいつも考えていよう。
「今日が君の死ぬ日」・・・と。
(オワリ)
原作/黒笑サユリ「黒笑サユリのホラ~話」より