そもそも、大多数の支持を得ているからと言って、自分にとっては何の価値も見出せないものであれば、私にとっては、何の価値も無い訳で、もちろん、少数に支持されているものも同様であり、私にとって、どうなのか?と言う事が重要なのである。
なのに、経済の戦争に参加せねば、楽しみを持続出来ないゆえに、大多数・・・とまでは行かないが、数を増やさなければならないと言うのは、非常に矛盾する話である。
数が多かろうが、少なかろうが、どちらが偉い訳でも無い。
・・・否、目的が同ぢであれば、そこには優劣が顕在するが、こと自分のこころの満足度、充実度、幸福度と言う面から計るならば、他人が何人集まろうが、そんな事は全く関係の無い話なのである。
俺は、他人を喜ばすために生きているんぢゃ無い。
否、他人を喜ばせる事は嫌いぢゃないし、むしろ好きかも知れない。
しかし、自分を喜ばせる事も出来ない奴に、他人を喜ばせる事が出来るだろうか?俺はそんな自虐的な人間では無い。
俺は・・・と言うか、人は、自分を喜ばせるために生きているのだ。
そして、その次の段階として、自分を喜ばせる行為が、他人をも喜ばせる事が出来るとなれば、それに勝る喜びは無いであろう。
自分が喜べない状態では、他人なんて喜ばせられるはずが無い。
自分を犠牲にして、他人を喜ばせる事は、一見、美談に見えるが、そんな事は無い。
私は、他人の犠牲の上に成り立つ幸せや、他人を苦しめてまで喜びを得ようとは思わない。
誰かが誰かを支配する場所に、共存共栄など無い。
自立していない人間は、他人と関わったり、集団に属するべきでは無いのだ。
いくら泳ぎが達者でも、溺れる者を救おうと川に飛び込み、共に溺死するのがオチだ。
以下は、大嘘である。
何度でも言うが、私が望むのは、誰一人として悲しい思いをする事の無い社会であり世の中である。そしてそれは、ひきこもりも、人殺しも、テロリストも、戦争国家の親玉も、金持ちも貧乏人も、知恵遅れも片輪も、エリートも落ちこぼれも、白人も黒人も、分け隔て無くすべての者においてである。
そして、それを実現するためには、まずは自分を喜ばせなければ何事も始まらない。
また、自分を喜ばせると言う事とは、楽をするとか怠けると言った、後ろ向きな行為によってもたらされるものでは無い。
それは、あくまでも、前向きな生命維持行為によってもたらされるべき種類のものなのである。
今、私が見せなければならないのは、数が少なくて苦しむ姿では無く、数が少なかろうが多かろうが、自分の楽しみを追い求める姿であり、そこに喜びを見出す姿である。