長い葛藤の末に、結論めいたものが見えてきた。(暗くヘヴィな日記に、ここまでお付き合い頂き、誠にありがとうゴザイマシタ。)
要するに、どちらが上だとか下だとか、そう言った優劣を競うレース、上である事による優越感とか、下である事による劣等感、そんな下らないものには、もううんざりだって事だ。
否、もううんざりと言うよりは、私は、初めからそんなもの求めていないとどころか、忌み嫌ってさえいたのに。
自分も含め、人を見下すような人間は、その時点で最低なのだ。
それが、何の間違いか、そんな争いに荷担するはめになってしまった。
もちろん、後悔はしていないし、それが間違っているとも思わない。
だけど、それは私の望む人生では無いと言う事だ。
戦争の様に、人を殺そうが殺すまいが、とにかく、どちらが上だとか下だとか、どちらが優れているだとか優れていないだとか、どちらが強いとか弱いとか、そんな比べっこは、もうたくさんだ。
とは言え、定められたルールの元に、同様の条件でそれを競うのであれば、それはそれで意味のある事であり、そこに生きがいを見出す者も居るだろう。
だけど、ドーベルマンと、そこらの野良猫をケンカさせて、面白いのか?と言う事だ。もしも、そこに“強さ”と言う優劣を見出そうとするのであれば、猫に生まれた時点で、野良猫は失格であろう。。
しかしまた、食料を与えてくれる者がおらず、街の中で暮せと言われた時に、どちらが生き抜けるかと言えば、人間の邪魔にはならない野良猫の方であろう。ドーベルマンは、人間の手によって捕獲され、仮に新しい飼い主に引き取られたとしても、再び自由を奪われた一生を送るのみである。
マイ・ルールを押し付けて、価値観や人生観の異なる人種に勝ったところで意味無いし、ましてや、あちらのルールに合わせて戦う必要がどこにある?
結局、もっとも重要なのは、自分の望む生き方を成し得ているか?と言う一点に尽きるのだ。
私がしたいのは、“誰かと比べる戦い”では無い。
私が勝ち取りたいのは、自分で決める権利、自分で選ぶ権利、自分でつかむ権利、すなわち“自主独立”、ただそれだけなのだ。