“大人みたい”な事を言う人がいる。
彼らは、口々に、こう生きるのが正しい、こう生きるのが幸せだ、と言う。
しかし、それはあくまで、平均点の子供に当てはまる事柄、それも、無難な道、安全パイの人生を指し示すものであり、特異な能力がある人間や、その逆に、欠陥のある人間には、当てはまらない。
確かに、苦渋をなめる事無く、人生を無難に、安全に、平和に、安定して、やっていけるかも知れない。
でも、もっと自分の能力を、可能性を試したい人間も居るだろうし、逆に、それさえもまっとう出来ず、いつも自分に劣等感を抱いてしまう人間も居るはずだ。
もっと、バリエーションは無いのか?これだけ多くのサンプルが、この世には存在すると言うのに。
親なら、まあ、本当に子供の事を思いやっての事かも知れない。しかし、本当の幸せ、幸福感と言うものは、あくまでも、本人のこころが満たされているかどうかであり、他人から見てどう思われているか?と言う事では無い。
一見、幸せに見える、社会的に成功している人間も、こころの中には苦悩と葛藤と疑念と後悔でいっぱいかも知れない。
とは言え、幸せに見えない人間は、やはり幸せでは無さそうではある。
しかし、最近、こう思うようになった。「不幸な人間は、自ら、不幸を求める様な生き方をしている」・・・と。そんな馬鹿な、と思うだろう。だが、これは矛盾する様だが、不幸だからと言って、幸せでは無いかと言うと、意外とそうでも無く、幸福の度合いとは、本人の抱く目標、目的が達成されているかどうかと言う事もひとつの目安ではあるが、それよりは、むしろ、本人の能力や努力に見合った成果が得られているかどうかと言う点こそが、最も重要なのだ
つまり、幸せになるために、失敗を恐れず積極的に行動する者も居れば、幸せに成るために努力をしたり、何かをするよりは、今のママで充分、否、こうしてぢっとしている方が幸せ・・・と考える人間も居ると言う事だ。
人は、それぞれ、各々に見合う報酬を得るべきであり、それが当然。だから、それはそれで良いのだ。
そもそも、“本当の大人”なのであれば、人それぞれに、的確なアドバイスをするべきであり、それが出来て、初めて、他人を説得出来るのでは無いか?
自分の人生が失敗だったからって、未来ある若者に、保険をかける様な生き方を説くのは、あまり感心しない。また、子供は、“大人みたい”な人の言う事なんて、聞かなくて良い。
否、別に説いたって構わないし、聞いたって構わない。
人それぞれ、自由。
ただ、私はこう思う・・・と言うだけの話だ。
私の考える“本当の大人”、否、“素敵な大人”とは、いかなる社会、集団に属そうとも、自分の基準、価値観を持ちうる、自立した存在、すなわち、“確立した自己”を持つ人間の事を指す。
他人の言う事を真に受けて、自分で考える事をしない人間は、いくら身体が成長しようが、いくら長く生きていようが、いくら物事を知っていようが、いくらシワを増やそうが、とても“大人”とは言い難い。
それは、ただの、“老いた人”である。