ところで、この世には、色々な音楽、様々な表現形態があって良いと思うのだが、ただ一つだけ言えるのは、そこに至るプロセスは別として、それらが目指す共通の目的は、あくまでも、“楽しく”なるためにやるのだと言う事であり、その対象が自分である場合が“自己表現”であり、対象が他人である場合が“エンターテイメント”である・・・と、私は考える。
ゆえに、日常の感覚を麻痺させるのが目的の大音量のノイズ・ミュージックにせよ、自らの身体を痛めつけ、生命を死地へと追いやる、まるで“一刻も早い死を望んでいる”かの自虐的なパフォーマーにせよ、演奏のクォリティ向上を最大限に求めるあまりに、禁欲的、求道的に、肉体と精神のすべてを注ぎ込む職人気質のアーティストにせよ、それらは一見、“苦しさ”を求めているかの様にも誤解されるが、最終的には、自己の“こころの安定”を目指していると言う点においては、“楽しく”なる、すなわち“快”を求めている事に、何ら変わりは無いのである。
要は、ただ、その方法論、表現方法が異なるだけで、それは、それぞれが持って生まれた資質、環境によって形成された人格、自ら求め創り上げんとする理想等から、各々に芽ばえた、生きる目的の表面的な違いに過ぎず、むしろ、批判されるべきであるのは、誰かに“やらされている”感覚であったり、光に集まる羽虫の如く、権威や流行に“盲目的”に隷従する事なのである。
前置きが長くなったが、そう言う意味においても、この「さんくちゅありぃ」と言う作品は、音楽を演る事による“楽しさ”に関して、極めてピュアな精神と、自由な感覚が溢れており、非常に好感が持てるものとなっている。
簡単に言えば、聴いていて、思わず、「ウフフ・・・」な気分にさせられるって事だ。
更に、本作を、もう少し具体的に分析するならば、シンプル過ぎて粗雑にさえ見える楽曲群には、実は多様なアイデアや実験精神が無理無く生かされており、特に、ユニークな言葉とリズムの緊張感溢れる組み合わせ、及びモタコ氏の“がなり声”に象徴される、暴力的なまでの瞬発性と説得力には、目を見張るものがある。
あと、とにかく、“楽しそうである”と言うか、“生き生きとしている”と言う点が、非常に心地良い。
“適当”であるとか、“いい加減”であると言う言葉には、とかくネガティヴなイメージが付きまとうが、それらには本来、“丁度良い塩梅(味加減、具合)”であると言う意味がある。そう言った観点からも、本作の最大の魅力とは、固定観念に縛られて自らを制限する事も無ければ、何者かに“支配される事”も無い、天然培養的な、その“自由奔放さ”にあると言えよう。
また、最後に、見る者の想像力を喚起して余りある、ジャケットのアート・ワークの秀逸さも、特筆に値するものであると言う事を、付け加えておく。
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