昨夜の出来事。
未成年の頃の窃盗を、自らがテレビの番組で暴露してしまい、しばらく謹慎していた芸能人が、公に謝罪したらしい。「軽率な言動・・・」うんぬん、申し訳無かったと・・・。
すべての発言を聞いた訳では無く、ニュースのトップ見出しを見ただけであるが、過去の犯罪行為を告白してしまった事は、所属事務所に対しては厳罰に処して余りあるマイナス行為であったろうが、本当に謝罪すべきは、その軽率な言動に関してでは無く、実際に窃盗を繰り返したコンビニだかの経営者に対してなのではなかろうか。きちんと、弁償はしたのかよ?
話変って、昨日も、「太田光の私が総理大臣になったら」を見る事が出来マシタ。マニフェスト(提言内容)には無理も多いが、基本的にはバラエティなので、わざと極端に設定しているのだろう。とは言え、太田氏の言動のいくつかには、いくばくかの感動を覚える事が、ままある。それはおそらく、“発言内容”自体にではなく、太田氏の、他人に何かを伝えようとする際に伴う、“熱意と誠意”みたいなものに対してであると思われる。
その後、風呂を沸かしたり、コインランドリーに洗濯しに行ったりしつつ、たまたまやってた岡本太郎のドキュメンタリーみたいなものを見る。
岡本太郎に関しては、いずれ言及したいと思っているが、今回の番組の主旨は、長年行方不明となっていた大壁画が初公開されるイベントをメインとしたもので、開幕直前に行われた、山下洋輔氏によるソロ・ピアノ演奏には、非常に感銘を受けた。とは言え、そもそも私自身、同氏に対して何の思い入れも無く、レコードも軽く聴いた事がある程度であったのだが、昨日の演奏は、岡本太郎、すなわち自分より先に逝ってしまった、言わば表現者としての先輩(あるいは戦友)に捧げるものであったと言う事も大きいのだろうが、何ともやりきれない“無念の情”と言うものが込められていたと、私は勝手に解釈した次第である。
例えば、“満たされて安定している状態”、あるいは、“あきらめ冷め切った状態”とは、勝ち負けの違いはあれど、いずれも、ある種の完成であり、到達点であると言える。
しかし、やはり私が好むものは、あくまでも、生きているがゆえの“苦悩”であり、“葛藤”であり、それら“生存の途上”における“悪あがき(反発)”なり“断末魔の叫び(抵抗)”なのである。
そしてそれらは、ゴールの見えない不安定な状態や、光の射さぬ負け続けの連続から湧き上がる、虚しくやるせない、“無念の情”に他ならない。
人は死ぬ。必ず死ぬ。生きている限り、いつかは死ぬ。
これが無念でなくて、一体、何だと言うのだ・・・。
そもそも、“生きる事”、それ自体が“虚しき抵抗”なのである。
また、“無念の情”とは、人はいつかは死ぬと言う、その忌むべき現実の、あまりにもな“虚しさ”に対して、抵抗した者にしか、芽ばえ得ない感情だとも言える。
“虚しさへの抵抗”、すなわち、それこそが“生きる”と言う事。
よって、皮肉にも、生きようとすればするほど、“無念の情”は、増してゆくばかり・・・。
そして、“無念の情”を振り払おうとするがゆえに、無駄だと解っていながらも、人は“伝えようと”し、“生きようと”するのである。