一緒に暮らす旦那(駄目な競走馬)を責めても仕方無い。
目の前に居る子供(自分より更に弱い者)を虐待しても意味が無い。
負の連鎖、その繰り返しでは、根本的な問題は何ひとつ解決しない。
また、奴隷(この世の掟に従わないと生きていけないと思い込まされている者)に怒りをぶつけてもしょうがない。
ただ、資産の量が多いほど偉いと言う価値観、すなわち、家畜の数を競うかの様な現代の価値観に関して、一度、疑いの目を向けてみる事は、必要かも知れない。
“与えるものの量”より“奪うものの量が多い”人間の方が偉い?
“偉い人”とは、どう言う人の事を指すのか?
・・・とは言え、これで良いのかも知れないと言う思考が、不意に頭をよぎる。
この世は、弱肉強食で良いのではないか?・・・と。
本来、人間とは、利己的なものなのだから、その本能を最大限に発揮出来る能力のある人間、すなわち社会的強者が利益を独占するのは当然であり、皆が、それに憧れ、そうなりたいと考える事も、必然なのかも知れない。
何故なら、利己的な本能とは、種族保存のためにあり、そのためには、何よりもまず、自分の生命を維持する事が最優先されるがゆえ、その本能や能力が、弱いよりは強い方が良いに決まってるからである。
ただし、それとは反対に、利己的な本能を抑える事こそが正しくて、それこそが動物には無い、人間だけに備わった素晴らしい特性であり、可能性であると言う考えも、捨てきれない。
鳥の翼は何のためにあるのか?
魚のひれは何のためにあるのか?
ライオンの牙は何のためにあるのか?
ヒトの理性は何のためにあるのか?
否・・・。
ヒトの本能は何のためにあるのか?
そう考えると、やはり、私の考えは間違っており、負け犬の愚痴でしかない事が、良く解る。
この世は、人間は、利己的に生きるのが正しい。
自分の血を保つため、家族を作り、守り、幸せにし、自分の家系を永きに渡り繁栄させる事こそが、ヒトとしての真っ当な生き方なのだ。
ただし、そのためには、先祖から受け継いだ権力や資産を基に、家系を繁栄させ、維持していくための能力と言うものが、必要不可欠となってくる。
ゆえに、生まれた家系、家庭、環境、いかなる理由を考慮に入れようとも、それが出来ない人間は、単なる駄目人間なのである。
トナルト、最大の問題は、「駄目人間に生きる資格はあるのか?」と言う点に尽きる。
まあ、資格が無くたって、生まれたからには、生きて行くしかないのだが・・・。
とは言え、被搾取階級(奴隷の家系)に生まれ、能力も無いのであれば、せめて、この肉体を流れる支配者体質的利己心が、一刻も早く、そして少しでも薄まってくれればと、私は、ただただ願うのみなのである・・・。