とある筋より、秘密の指令が下されたので、改めて考えてみた。
パンク登場の意義とは、それまであったロックが、本来担っていたはずの役割を見失ってしまった事に対する“復権”であり、ゆえに、パンク・ロックの音楽としてのスタイル自体は、さほどロックとは変りないか、あるいは、ロックのフォーマットを先鋭化させたものに過ぎなかったりもする。
トナルト、現在、そのパンクですら、既に役目を終えたと言うか、やはりロック同様、本来担っていたはずの役割を見失った・・・否、それだけならまだ良いが、現実には、現支配体制を維持するためのツール、あるいは商品として、取り込まれてしまっただけに過ぎないとも言えよう。
そもそもパンク、そしてロックとは、管理社会に適応出来ない者や、数の正義から疎外された者による主義主張や思想を表現する手段、あるいは適応障害や欲求不満の発散手段であり、社会の仕組み(上納金徴収システム)とは無関係な所で、個人個人がそれぞれの価値観の下に、自由に、かつ自主独立的に楽しむ方法の一つであったはずだ。
にも関わらず、いつの間にやら、そのパンク・ロックですら、現支配体制における既得権益者に利益をもたらす金の生(な)る木と化し、まるで、パンク・ロック登場時のロックの如く、形骸化してしまっているのが現状であろう。
しかも、更には、現支配体制を妄信、隷従する“村人達”の嫉妬や偏見によって、虐げられた者、落ちこぼれた者、あるいは、意識的に従わぬ者にこそ、ロックなりパンクが必要であったはずなのに、今やその逆に、虚しき抵抗を試みようとする非力な少数派を選別差別化するため、わざわざ仲間外れを生み出すために、そして、思考停止させられた村人達を連帯させる“お祭り”のBGMとして、権力者に忠誠を誓う旗印として、パンクやロックが存在していると言っても過言ではない。
ゆえに、もはやパンク・ロックも、パンク発生時のロックの如く、その役目を終えた(権力にひれ伏した)と言い切れるのである。
さて、そう考えると、パンク・ロックが本来担っていた役割なり機能を失った(奪われた)今、現支配体制や管理社会から疎外された者、適応出来ない者、隷従する事を断固拒否する者達は、一体何処に、その行き場を求めれば良いのだろうか・・・。
その答えは、他人を頼らず各々で出してもらうとして、しかし最後に、これだけは言わせてもらいたい。
「パンク」と「弱い者いぢめ」とは、絶対に相容れない。
否。むしろ、それこそが、「かつて、パンクと呼ばれていたモノ」の、“敵”なのである。