私の言う事は、他人から見れば本気と冗談の区別がつきにくいらしく、特に、真面目な人からは、誤解される事が多い。
・・・と言うか、理解される事を拒否・・・とまでは行かないが、回避しようとするがゆえの、シャイなあんちくしょうの“照れ隠し”だと思って許して頂きたいとの自分勝手な考えも無きにしもあらずなのであるが、世の中、そう甘くはない。
だがしかし、本能的な欲求も含め、生きたいと言う気持ちの中には、死にたいと言う気持ちも常に何パーセントかは含まれている訳で、そのバランスが崩れた状態が何日も続けば、自殺したくもなるのであろうからして、その配分を適度な比率に保つためには、真面目さと不真面目さとを、上手に使い分けない事には、やってらんないよ~!!ってな事になる訳である。
もちろん、人知れず真面目に生きている部分もあるのだが、何と言うのだろうか、偉そうに言えば、湖を優雅に泳ぐ白鳥が水の中では必死で足を動かしている様に、あまり真面目な部分を見せるのは、好きではないのである。(←何だかんだ言って、結局、真面目さをアピールしてやんの。)
何にせよ、真面目であるとか、本気であるかどうかなんて、本人の自己申告(あるいは自己満足)でしかない場合も多く、それを証明する根拠をいくら並べた所で、突き詰めてみれば、ただ単に視野が狭かったり、盲目的なだけであったりもする訳である。
よって、最も重要なのは、結果はどうあれ、本能に基づいて行動する事よりも、自分を理性でコントロールする事の方が大事なのではないかと言う事なのだ。
要するに、何が言いたいのかと言えば、本気と冗談の配分をコントロールする事によって、私は死なずに生きていけるのであるから、そこは“包み込む大きな愛”みたいなものを駆使して、笑って見逃してやって下さい・・・と言う、自己を正当化するための勝手な言い分を、もっともらしく綴ってみただけの話なのである。
目には目を、歯には歯を、熱意には熱意を、誠意には誠意を、本気さには本気さで、真剣さには真剣さで、真面目さには真面目さで・・・。
こんなふざけた狂った世の中で、真面目に生きると言う事は、自殺行為に等しい。そして、それはまさしく、大切なものをどぶに捨てる様な生き方である。
真面目に生きるべき時と場所は、自分で決定したい。