興味を持つほど好きでないのは、興味を持つに至らないからであり、何故に興味を持たないかと言うと、既に不要である事を認識しているからに他ならない。
通常、過去に観た事のないものを見れば、「何故?」と、その動機や根元、その正体や本質に対して、興味の目が向くものである。
また、既に認識、把握しているにも関わらず、何度見ても好きなものは好きであり、それは、抗う事の出来ない嗜好であるがゆえに、自分が自分であるための“何か”でもあり、しかしまた、幻想に過ぎぬと言う危険性も否定し得ない。
ところで、人は何故に、知ろうとするのか?
それは、その仕組みや、発生の原因、原材料等を知る事により、再度、この悦楽を味わおうと目論むからである。
好奇心、そして知識欲。それは、良い結果を、意識的かつ繰り返し求めるがゆえの当然の方策。
受動的かつ行き当たりばったりに、快楽を享受するだけでは、物足りないのだ。
自ら、何かを生み出したいと思う事は、人間の利己心に基づく発想であり、それこそが、本当の意味で生きると言う事ではなかろうか。
自分の命、自分の運命、自分の生死を、自らの手で出来るだけコントロールしたいと願う事。
その儚き望みを打ち砕かんと、日々、ヒトを蝕む何か。
決して避けられえぬ死への、虚しき抵抗。・・・それこそが虚無感の源。
殺したい・・・。
この虚無感。
そして、飽くなき退屈を・・・。