先日のいぬ屋敷にて、「Vol.23のレビューも終らぬうちに、もう24デスね」・・・とツッコミを受けるも、これはあくまで、自分のための記録なのだから、良いんデス!!・・・と、開き直りつつ・・・。
2005年3月21日/池袋手刀
「いぬ屋敷」Vol.23
悪性新生物の間「春期狂育委員会」
④「中学生棺桶」
中学生棺桶についてコメントするのは初めてであるが、実は私、このドゥーム・ロックと言うものに、縁がありマセンので、音楽的な善し悪しについて言及するほどの理解がありマセン。よって、今回は、バンドとしての中学生棺桶の在り方、表現者としての、リーダー・奇娘葉蔵氏について語ってみたいと思いマス。まあ、いずれにせよ、いつも通りの勝手な解釈満載デスが、どうぞヨロシク。
まず、もっとも着目すべき点は、葉蔵氏の作風は、己が裸のこころや感情を嘘偽りなくさらけ出すタイプの自己表現とは大きく異なり、かと言って、まったくの別人格を表に出した、完全なるエンターテイメントでも無いと言う事である。つまりは、要するに、彼がやろうとしている事は、伝えたい思想なり主張を、己が美意識に基づいた“作品”を構築する事によって、具現化しようとしているのではないかと思われる。
少し難解な言い回しになったが、簡単に言えば、自己表現を“素顔”とし、エンターテイメントを“別人の仮面”と定義するならば、彼は、自己のメッセージなりを伝える手段として、自らの美意識を刻み込んだ仮面、作者とは切り離されてはいるが、しかし“己が分身”の如きものを作ろうとしていると言う事だ。
すなわち、もっと簡単に言えば、彼は、涙や孤独や怒りと言った。極めて個人的な感情を、実はストレートには表に出していない。そんな、哀しさ、悔しさ、怒り、憤り、等はあくまでもこころの内に秘め、それらネガティヴな感情を、前向きな創作のエネルギーに転換していると言う事なのだ。ゆえに、彼らを指して、妄想うんぬんと言うのは当たっていない。彼らは、実にリアルな、非常に現実的な創作活動をしているのだから。
「神頼みの似非不良に抗う」・・・とのキャッチ・コピーが、それを雄弁に物語っている。
そして、手っ取り早い人気獲得のためや、売れるために、安易にそうしているのであれば、私には興味の無い話であるが、どうやら、そうでは無く、あくまでも自己の美意識を優先していると言う事は、作風にそぐわぬルックスのメンバーには覆面を被せる等、活動方針の徹底ぶり、その他、いくつかの言動からも明らかである。
とは言え、それが良い事であるのか、悪い事であるのか、と言う事は、個人の価値観の違いなので、何とも言えない。
言うなれば、中学生棺桶の音楽は、葉蔵氏の美意識が吹き込まれた、怨念で練り上げた粘土人形であり、怒りの刃で彫られた木彫りの人形なのである。
涙を流す事は簡単だ。しかし、彼らは、その涙をインクに変え、絵を描いているのだ。
そして、それは、あくまでも、作者の手を離れた“作品”でしかなく、あくまでも、ただの音楽でしか無い。
しかし、そこには、間違い無く、ひとりの人間の美学が在る。
次回、⑤「オシリペンペンズ」に続く・・・