Mr.エレクトの独り言 生死~20071107まで

Mr.エレクトの独り言

自主レーベル及び、日本人中古貴重盤ショップ、『エレクトレコード』オーナー、Mr.エレクトによる独舌日記!!

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徒然日記

興味を持つほど好きでないのは、興味を持つに至らないからであり、何故に興味を持たないかと言うと、既に不要である事を認識しているからに他ならない。

通常、過去に観た事のないものを見れば、「何故?」と、その動機や根元、その正体や本質に対して、興味の目が向くものである。

また、既に認識、把握しているにも関わらず、何度見ても好きなものは好きであり、それは、抗う事の出来ない嗜好であるがゆえに、自分が自分であるための“何か”でもあり、しかしまた、幻想に過ぎぬと言う危険性も否定し得ない。

ところで、人は何故に、知ろうとするのか?

それは、その仕組みや、発生の原因、原材料等を知る事により、再度、この悦楽を味わおうと目論むからである。

好奇心、そして知識欲。それは、良い結果を、意識的かつ繰り返し求めるがゆえの当然の方策。

受動的かつ行き当たりばったりに、快楽を享受するだけでは、物足りないのだ。

自ら、何かを生み出したいと思う事は、人間の利己心に基づく発想であり、それこそが、本当の意味で生きると言う事ではなかろうか。

自分の命、自分の運命、自分の生死を、自らの手で出来るだけコントロールしたいと願う事。

その儚き望みを打ち砕かんと、日々、ヒトを蝕む何か。

決して避けられえぬ死への、虚しき抵抗。・・・それこそが虚無感の源。


殺したい・・・。

この虚無感。

そして、飽くなき退屈を・・・。

無念の情

昨夜の出来事。

未成年の頃の窃盗を、自らがテレビの番組で暴露してしまい、しばらく謹慎していた芸能人が、公に謝罪したらしい。「軽率な言動・・・」うんぬん、申し訳無かったと・・・。

すべての発言を聞いた訳では無く、ニュースのトップ見出しを見ただけであるが、過去の犯罪行為を告白してしまった事は、所属事務所に対しては厳罰に処して余りあるマイナス行為であったろうが、本当に謝罪すべきは、その軽率な言動に関してでは無く、実際に窃盗を繰り返したコンビニだかの経営者に対してなのではなかろうか。きちんと、弁償はしたのかよ?

話変って、昨日も、「太田光の私が総理大臣になったら」を見る事が出来マシタ。マニフェスト(提言内容)には無理も多いが、基本的にはバラエティなので、わざと極端に設定しているのだろう。とは言え、太田氏の言動のいくつかには、いくばくかの感動を覚える事が、ままある。それはおそらく、“発言内容”自体にではなく、太田氏の、他人に何かを伝えようとする際に伴う、“熱意と誠意”みたいなものに対してであると思われる。

その後、風呂を沸かしたり、コインランドリーに洗濯しに行ったりしつつ、たまたまやってた岡本太郎のドキュメンタリーみたいなものを見る。

岡本太郎に関しては、いずれ言及したいと思っているが、今回の番組の主旨は、長年行方不明となっていた大壁画が初公開されるイベントをメインとしたもので、開幕直前に行われた、山下洋輔氏によるソロ・ピアノ演奏には、非常に感銘を受けた。とは言え、そもそも私自身、同氏に対して何の思い入れも無く、レコードも軽く聴いた事がある程度であったのだが、昨日の演奏は、岡本太郎、すなわち自分より先に逝ってしまった、言わば表現者としての先輩(あるいは戦友)に捧げるものであったと言う事も大きいのだろうが、何ともやりきれない“無念の情”と言うものが込められていたと、私は勝手に解釈した次第である。

例えば、“満たされて安定している状態”、あるいは、“あきらめ冷め切った状態”とは、勝ち負けの違いはあれど、いずれも、ある種の完成であり、到達点であると言える。

しかし、やはり私が好むものは、あくまでも、生きているがゆえの“苦悩”であり、“葛藤”であり、それら“生存の途上”における“悪あがき(反発)”なり“断末魔の叫び(抵抗)”なのである。

そしてそれらは、ゴールの見えない不安定な状態や、光の射さぬ負け続けの連続から湧き上がる、虚しくやるせない、“無念の情”に他ならない。

人は死ぬ。必ず死ぬ。生きている限り、いつかは死ぬ。

これが無念でなくて、一体、何だと言うのだ・・・。

そもそも、“生きる事”、それ自体が“虚しき抵抗”なのである。

また、“無念の情”とは、人はいつかは死ぬと言う、その忌むべき現実の、あまりにもな“虚しさ”に対して、抵抗した者にしか、芽ばえ得ない感情だとも言える。

“虚しさへの抵抗”、すなわち、それこそが“生きる”と言う事。

よって、皮肉にも、生きようとすればするほど、“無念の情”は、増してゆくばかり・・・。

そして、“無念の情”を振り払おうとするがゆえに、無駄だと解っていながらも、人は“伝えようと”し、“生きようと”するのである。

人生の“執着”駅

ところで・・・。

資産が多い者ほど、蓄財を増やせる可能性が多いゆえ、それが、この世の支配者であり、真の勝者であると言えるが・・・。

果たして、本当にそうなのであろうか?

・・・と言う疑問が、芽生えてきた。

死を恐れ、失う事を恐れ、不必要な欲望に駆り立てられ、優越感なり支配欲を満たす事で、その不安を解消しようとする。

繰り返し、繰り返し、繰り返す・・・。

捨てなければ。

失う不安から、モノやヒトに執着すればするほど、それらを“失う不安”が増すばかりである・・・。

捨てるのだ。手放すのだ。身軽になるのだ。

それ以外に、不安から逃れる術は、自由を獲得する術は無い。

人生の卓上に、本当に必要なモノだけを並べるのだ。

いつ死ぬかは解らないが、いつ死んでも、“悔い”だけは残さぬために・・・。

絶対“隷”度

我慢は自慢にならない。

我慢の限界、臨界点は、自分が決めるしかない。

他人が苦しかろうが、苦しくなかろうが、全く無関係に、自分が苦しい時は苦しい。

多少、気分が緩和される事はあれど、比較してどうなるものでもない。

前向きな目的の無い我慢は、消極的な自殺行為である。

永続的、あるいは断続的な我慢は、突然の死をもって終りを迎える。

負荷に耐え続けた結果、ポキッと折れる。

その時期は、本人にも、ましてや他人になど、解りっこない。

我々は、想像する事でしか、他人の苦しみを知る事は出来ない。

そして、苦しみの感情は、自分が味わう事によってしか実感出来ない。

せいぜい、“思い出す事”が出来るくらいだ。

“思い出したくない事”を・・・。

我慢によって、失うものと、得るもの。

それらを比べ、決定するのは、自分自身である。

そうしなければ、人は、時の渦に巻込まれた運命の奴隷となる。

そして、それらが意味するものは、抗う事無しに、死を受け入れると言う選択に他ならない。

他の死味

正しいタノシミ

間違ったタノシミ

基準があるのか

ないのか

こうすればタノシイはずだと

教わった

それでもタノシクなければ

足りないのだ

タノシクなるまでやるのだ

本当に

タノシクなるまで
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